船橋事故と反合・運転保安闘争論の確立
 

@国鉄労働運動と反合理化

 「闘いなくして安全なし」ーーーこれが動労千葉の反合・運転保安闘争のスローガンであるが、もともと炭労のスローガンであった。たび重なる落盤や炭塵(たんじん)爆発などで多くの労働者の命を奪われ続けた炭鉱労働者は、「抵抗なくして安全なし、安全なくして労働なし」のスローガンを掲げて闘いに立ち上がり、安全が確認されるまでは坑に降りないという労資協定をかちとった。
 しかし、総資本対総労働と言われた戦後最大の争議=1960年の三池争議に敗北し、炭労の団結が崩された結果、その3年後に三池の三川鉱で大炭塵爆発が発生し、500人もの労働者が一瞬にして命を奪われたのだ。「闘いなくして安全なし」は、まさに労働者の命をかけたスローガンであり、労働運動の解体か再生かをかけたスローガンなのである。
 戦後の鉄道における安全問題は、1962年の三河島事故、63年の鶴見事故として、その矛盾を爆発させた。160人もの命を奪った三河島事故の後、国鉄当局は、労資で「事故防止対策委員会」を設置する方針を打ち出した。世間に対し、安全確立に向けて取り組むかのような姿勢を示すことで、その場をのりきろうとした。国労、動労本部はこの提案を受け入れ、協定を締結した。しかし、「当局とテーブルを囲んで話し合うことで安全が確保されることなどあり得ない」という現場の怒りの声は強く、直後の動労全国大会では反対意見が続出し、本部が結んだ協定は承認を拒否され、執行部は総辞職した。ここから動労の戦闘的闘いは開始された。

 67年に提案された五万人合理化攻撃とのたたかい=機関助士廃止反対闘争は、国労、動労を通して、60年代後半の最大規模の闘争に発展していった。動力車職場では、助士廃止・機関士一人乗務が最大の焦点であったが、この攻撃は、当時の動労組織の2割、1万を占めた機関助士が職場を失うという組織の根幹にかかわる問題だったのである。これに、相次ぐ合理化・輸送力増強がのしかかり、職場の不満の声は高まった。同年、新宿駅で起きた米軍ジェット燃料タンク車の衝突・炎上事故等が重なり、運転保安の無視に対する怒りがたかまる。しかし、5万人反合闘争、機関助士廃止反対闘争は敗北する。この敗北をめぐって路線的には壁にぶちあたり、その当時反合理化闘争をいかに闘うかがテーマであった。動労東京地本に巣くう革マルは、反合闘争から召還し、78年貨物安定宣言に行き着く。
 他方で、マル生(生産性向上運動)粉砕闘争は、70年安保・沖縄闘争の高揚の中で、青年労働者を先頭とする闘いで勝利する。しかし、マル生闘争の歴史的勝利にもかかわらず、国鉄労働運動はその後急速に展望を見失っていく。72年オイルショックから74〜5年不況としてあらわれた戦後高度経済成長の終焉、資本主義の危機が基底にあった。ここには右肩あがりの経済成長を前提に成り立ってきた総評労働運動そのものの限界があった。不況下での労働運動をどう進めていくのかという壁にぶつかったのだ。
 他方、国鉄当局はマル生以降、「労使正常化」の名のもとに国労・動労指導部のからめとり工作を強め、両者の癒着と腐敗が進んでいった。こうして、官公労の8日間にわたるストライキとして打ちぬかれた七五年のスト権ストの敗北以降、革マル、民同、協会派、日共などが展望を完全に喪失し、そして動労革マルは国鉄分割・民営化推進へと裏切りの道をつっぱしっていった。
 しかし、この流れに抗して独白の路線と新体制を確立し、新たな挑戦に挑みだしたのが動労千葉であった。動労千葉は、反合理化闘争を具体的に闘う路線として、72年の船橋事故闘争を契機として、「反合理化・運転保安確立闘争」の路線と、七三年の関川−中野新体制を確立したのである。

A72.3月 船橋事故の発生と高石運転士逮捕

 72年3月28日午前7時過ぎ、総武線船橋駅において、上りホームに停車していた電車に後続電車が追突し、死者こそ出なかったが乗客600人が負傷する大事故が発生した。これがいわゆる船橋事故である。この事故発生直後、国鉄当局は追突した電車の高石運転士(津田沼支部所属)を一方的に、船橋職員集会所に連れ去り高石運転士に事故責任をおしつけ、供述を強制し、その上で警察に引き渡したのである。警察は、逮捕令状のないまま高石運転士を長時間にわたって身柄拘束した。
 そして、マスコミは、「たるみ→ミス→運転士の責任」という大キャンペーンをはり当局と一体となって一切の事故の責任を乗務員に転稼しようとしてきたのである。
 これに対して、津田沼、千葉気動車支部、青年部を先頭に、「みんな勤務が終わったら船橋署に駆けつけろ」といって連日、何百人もの組合員が船橋署を包囲して、ついに5日目で釈放させた。千葉鉄当局は、高石運転士が釈放されるや、自宅に押しかけ、昼夜を問わず張り込み、挙句のはてに旅館に連れ込み事故の責任を強引に認めさせようとしたり、乗務員に対する恫喝と執拗なまでの責任のなすりつけの策謀を連日行なってきたのである。
 これに対して、千葉地本の現場の全組合員は、「この事故は乗務員の責任ではない。責任を乗務員に全部押しつけることは許さない!」「第2第3の高石君を出すな!」を合い言葉に、国鉄当局に対する怒りを爆発させ、猛然と闘いを開始した。
 4月3日、4日、72春闘に対する国鉄当局の不当処分発表に対する抗議と、なによりも船橋事故に対する怒りに燃えた組合員は強力順法闘争に決起した。さらに、津田沼、千葉を拠点とする4・27〜28の春闘決戦48時間ストを、当局のロックアウト、機動隊導入を実力で粉砕し貫徹した。
 この73年3〜4月の闘いは、船橋事故を大きな契機として、マル生完全粉砕の闘いと一体となって反合・運転保安闘争の新たな出発点を築いた。
 事故問題は、現場の運転士にとって切実な問題だった。この現場からの怒りの声が原点になって千葉地本自身が変わっていく。それが引いては動労千葉と動労本部の分離独立の出発点にもなったし、あらゆる課題の出発点になっている。みんながそれは自分自身の課題だと思っているから組合員も強くなるし、そういう闘いだから動労千葉はオレたちの組合だという感覚になっていくのだ。


B事故原因の全貌が明らかに

 船橋事故の直接的、根本的原因は、日がたつにつれ、その全貌が明らかになってきた。商業新聞ですら次のように報道したのである。「国鉄本社運転区のエリート幹部も停電時のATSの扱いを知らなかった」(読売)「ナゾの停電」(千葉日報)「架線は停電せず、信号機なしの状態」(朝日)。
 このように、当局が主張する「乗務員の不注意」等ではなく、船橋事故の原因が、次のことに起因することがますます明らかとなっていったのである。
@「信号停電」が直接の原因である。
 それは「起らない」といわれた信号停電が蕨変電所の送電線の断線によって発生したのである。この信号停電は、蕨変電所の送電線が、1929年に架設されて以来、電気保守関係の合理化によって、一度も張り替えられず四〇年間「放置」され、長い年月の間の疲労と腐触によって断線したものであった。そして、停電に際して、補充電源をこの区間に配置していなかったという二重の手抜きがされていた。
Aしかも、このような「信号停電」という全く予期しない異常事態に際しての「ATSの取扱い』が、一切教育訓練されていなかったのである。それは、本社運転局長以下のエリート幹部も知らなかったばかりか、津田沼電車区の養成助役すら知らなかったのである。
BATSが鳴動しても確認ボタンを押してチャイムに切りかえ、本来の「列車自動停止装置」としての機能を停止させ、見込み運転を強要する指導が日常的に行なわれていたのである。つまり見込み運転を行わないかぎり、総武緩行線の二分半間隔の超過密ダイヤを維持することができないのである。
Cさらに、過密ダイヤとそれを保障するものとして0号信号機を設置し、信号の過密化をもって「輸送力増強」をはかり、運転保安無視と労働強化を乗務員に押しつけてきているのである。つまり今迄の1閉塞区間1列車主義を、これらの処置により、2本3本の列車を無理に走らせたのである。
以上のように今回の船橋事故の原因を見たとき、単に総武線のみの問題ではなかった。合理化・過密ダイヤとスピードアップなどによって、新幹線においてすらレールや架線等々の極度の消耗、車両故障が多発し、いつどこでも大惨事が起こるかわからない状態であった。こうした恐るべき事態をつくりだしたものこそ国鉄再建10ケ年計画=大合理化攻撃であった。

C72年9月起訴、刑事休職処分を粉砕

 船橋事故発生から約半年後の9月20日、千葉地検は、高石運転士に対して「事故の責任は高石君の不注意であり、四本の信号機を見すごした」と事故責任の一切を運転士に転嫁し、不当起訴を行った。
 1300組合員の怒りは一挙に爆発した。津田沼支部を中心に各支部組合員が地本にかけつけ、口々に「抗議闘争を直ちに実施せよ」「千葉のみではなく全国闘争として闘うべき」等の要求を地本と動労本部につきつけた。しかし動労本部は、「事故問題は、純粋労働運動でない」「業務上の問題であって労働者は闘いに起ちあがらない」等という動労革マルの敵対もあり、最終的に「千葉地本のみの闘い」の特認闘争として九月二五日から三日間の順法闘争が設定され、全組合員が全力で決起していったのである。
 一方、千葉鉄局長は24日記者会見を行い、「今回の闘争は、反戦系五十名とそれに追従する100名の闘いであり、たいした影響はない」等と発言を行ない、闘いの火に油をそそいだ。順法闘争初日の25日、総武線は運休100本余りをつくりだし、夕刻の千葉鉄管理局前抗議集会に全支部から500名の組合員が結集し、警察権力の戒厳体制をぶち破り集会とデモをおこなった。
 26日に、当局は組合員を監視・威嚇するために3人1組になって添乗してきたが、組合員は地本指令以上の遅れを出すことで反撃した。なんと運休150本、総武国電区間はもとより房総半島全線の無ダイヤ状態、夕方ラッシュの18時台に1本しか電車が動かないという事態を生み出し、順法闘争では異例な乗客の京成電鉄への振り替え輸送もやむなしという事態をつり出した。
 この激しさに驚愕した当局は、千葉鉄局長自からが千葉地本に「中止してほしい」と泣きを入れ、「業務上事故による起訴、それによる刑事休職発令」を阻止したのである。
 この不当起訴抗議順法労闘争の意義は、「業務上事故問題は闘えない」という「常識」を打ち破り、単に起訴抗議闘争としてではなく、事故責任転嫁粉砕・運転保安闘争のあるべき闘いの方向を指し示すものであった。
こうして船橋事故を契機とする運転保安闘争の高揚は、72年9月闘争から73春闘へとうけつがれ、職場、生産点から古い体質を打破し、戦闘的、階級的労働組合へと千葉地本総体を転換させる契機となったのである。

 D革マルとの激しい攻防  闘う執行部の確立へ 

 当時の動労は全体としては、七三年三月のいわゆる上尾暴動以降、ストや順法闘争を一挙に終息させてしまう状況であった。すでに革マルの影響力が強まっていた動労東京地本は、上尾事件を「権力のどす黒い謀略」と主張して路線転換を正当化していった。ひとり千葉地本だけが、反合・運転保安闘争という独特の形態をとって階級的路線を堅持して、ひきつづきたたかいを貫いた。
 このような動労千葉の独白の路線の確立とたたかいへの決起は、その出発点から動労本部に巣喰う革マルによるたび重なる暴力的組織破壊攻撃とのたたかい、それを通しての千葉地本の新たな指導体制確立に向けた闘いと一体のものとしてあった。
 始まりは1968年、滝口誠・新小岩支部青年部長へのでっち上げ首切り攻撃の解雇撤回闘争に対する敵対からだ。 この過程はマル生攻撃がふきあれ激しい組合つぶしが日常的に行われていた。この解雇は青年部活動家をねらったでっち上げ処分だ。しかし革マルは、「弾圧されるようなことをやるお前らが悪い」と解雇撤回闘争を闘う千葉の組合員を攻撃した。そして七〇年始めごろから、千葉地本青年部が中央の会議や行動等に参加すると必ず本部青年部革マルによって集団的なテロやリンチを受けるという事態が生起した。七二年にいたり、地本青年部は、組合員の身の安全を守るためにも、暴力行為問題の釈明がされないかぎり、今後一切の中央会議、行動に参加しないことを決定した。これに対して関東青年部の二百数十名が「オルグ団」と称して千葉にのり込んで、地本青年部役員らに暴行をくりかえすという事態も起き、本部革マルヘの怒りは頂点にたっしつつあった。それまでは「まぁ若い者同士のケンカだから」と見ていた年配の組合員も見方が一変し、千葉地本は親組合を含めて本部との対決姿勢を強めていった。
 だが動労本部は、暴行事件については一切不問に付して千葉地本青年部の自衛措置(中央行動への不参加)のみを攻撃し、七三年一月、地本青年部役員六名に権利停止処分を加えた。73年一月の地本臨時大会は、怒りをこめた圧倒的多数で統制処分撤回要求を議決した。
 あわせてそれまで本部に屈してきた地本執行部は総辞職に追い込まれ、その後四回の継続大会が開催されたが結論にいたらず、七三年九月の第二四回地本大会において、ついに関川宰委員長、中野洋書記長の新執行体制が確立されたのである。これ以降、青年部レベルでの対立は、千葉池本と本部革マルとの対立に転化していった。
 この組織問題の爆発は、反合・運転保安闘争の確立・高揚と表裏一体のものであった。もちろん当初は、職場のなかにも「内ゲバなら外でやってくれ」という意見があった。しかし組合員は、たび重なる事件を目のあたりにして本部革マルの正体を自分の目で確かめ、また一方で、急速に右旋回する本部と、反合・運転保安闘争を闘いぬく千葉地本の鮮明な対比のなかに自らのたたかいの正しさを確信していった。またそればかりではなく、この攻防戦のなかには、単に動労の路線をめぐる対立というレベルにとどまらず、総評全休が壁にぶちあたり、舵を右にきってゆく状況のなかで、これをいかにのりこえてゆくかという大きな課題がはらまれていることを肌で感じとっていったのである。

E船橋闘争裁判闘争の開始と73年秋期闘争の爆発

 また、新執行部成立直後の9月10日をもって、いよいよ千葉地裁に於いて、第一回船橋事故公判が開始され、さらに、11月15日第二回公判が行なわれ、高石君の意見陳述、弁護人の冒頭意見陳述が行なわれたのである。
 千葉地本は、この裁判闘争を通して、国鉄当局の運転保安無視を徹底的に暴露し、事故の根本的原因である「再建十ケ年計画」=国鉄大合理化粉砕の立場に立つ公判闘争を「高石君完全無罪獲得、公判闘争完全勝利」にむけて闘い抜き、日常の職場、生産点における反合、運転保安闘争と結合させる闘いが始まったのである。
 この闘いの第一歩が、9.26〜27を頂点とする、9・20以降の一週間にわたる73年、秋期闘争であり、特に昨年9月の不当起訴から丸1年後の九月二〇日、千葉鉄当局は、高石君に対し不当にも休職処分発令の攻撃をもって動労千葉地本の秋期闘争に対して、先制的攻撃を行なってきたのである。地本は直ちに、本部に特認申請を行ない、9月21日の局前抗議集会の圧倒的な成功をかわきりに、休暇闘争、順法闘争の強化をもって、当局に対する反撃の闘いに決起していったのである。そして津田沼、千葉転両支部を先頭として強力な闘いが発展し、首都圏で唯一、連日50〜100本の運休列車を続出させ、全支部一丸となった千葉地本の戦闘力を内外に示したのである。
 さらに、県警機動隊導入などの当局側の弾圧体制をはねのけ、貫徹された佐倉支部を中心とする11・20闘争から12・4統一スト貫徹へと闘いが発展、強化されていったのでる。

F「合理化により奪われた労働条件を奪い返す闘い」 74年3/1特認闘争

 73年12月以降、74年2月末までの3ケ月間だけでも千葉鉄管内において、次のよう線路事故が発生している。
 11月23日・総武線八街〜榎戸間・レールの継目ボルトの折損。 
 12月11日・成田〜久住間・レールき損
 12月28日・外房線天津〜鴨川間・レール頭部(熔接部)折損。
 1月4日・稲毛駅構内・ポイント尖端き裂 
 1月16日・外房線長者町〜三門間・レール継目ボルト折損。
 1月20日・千葉駅構内(三番線)レール継目ボルト折損。
 2月20日・内房細長浦〜姉ケ崎間・道床陥没。
 千葉鉄当局は、このような事故発生の都度「寒さのためだ」などと発表したが、この当局の弁明の中に、干鉄管内の線路が全国でも、「ワースト3」に入るといわれているくらい悪化し、いかに劣悪な状態のまま放置されているかが明らかとなったのである。
 千葉地本はこれまで、事故発生個所の10K/h運転の抗議行動を行ない、その都度、当局に厳重に坑議してきたが、当局は、線路状態の悪化は認めつつも、何ら根本的改善策を実施しようとしなかったのである。
 これに対して、千葉地本は、「このまま放置するならは重大事故発生は必至である」と事態は深刻であると判断し、74年1月12日、第四回支部代表者会議を開催し、74年春闘の準備体制の確立ともわせて重大々決意をもって「保線合理化に反対し、線路の根本的改善」を要求する2〜3月反合運転保安闘争に決起することを万場一致で確認し、2月26日以降の減速・減産闘争から3・124時間ストを頂点とする全支部における闘いに起ち上ったのである。
 この3・1ストを中心とする闘いにおいて、「線路の抜本的改善」「スピードダウン」「保線合理化阻止」「労働条件の回復」という運転保安確立をめざして、当局をするどく追い込み『列車の最高速度規制』(全線区10q/h減速)という全国でもはじめてのかつてない成果をかちとったのである。
 船橋事故を契機とする闘いが、動労千葉地本における反合、運転保安闘争の起点であったとするならは、73年3・1特認闘争は、再建10ケ年計画=国鉄大合理化と対決する千葉地本の具体的な反撃に転ずる第一歩の闘いであったのである。
 そして、この闘いは、動力車労組における反合、運転保安闘争の壁をこじおける突破口の役割をはたし、「合理化により奪われた労働条件を奪い返す闘い」の第一歩を切り開らいたことである。

G 文字どおりのダイヤ改正を実現 74年10月ダイヤ改正闘争
 74年3・1特認闘争で、73年度の予算上の特別措置として管内各線の運転保安設備の費用として4億円の支出を認めさせ、更に七四年度に於いては13億円の予算を約束させた。しかし、当局は誇大々資材を沿線各地に運搬・配置したにもかかわらず工事着工の目途が立たなかったのである。つまるところは要員の問題であった。
 合理化で保線要員が不足し、下請けの工事要員は新幹線建設に吸収されてしまう中から、運転保安のための要員を確保することが出来ないという現実が明らかになったのである。さらに急激な保安状態の悪化の原因には電化を急ぐあまり、突貫工事による架線の設置による路盤のカサ上げ等の処置ができないことも一因となっている。この現実をも踏まえ、動労千葉地本は、七四年一〇月を目途に進められている総武本線の電化(DC=ディーゼル列車からEC=電車)に向けて、1974年10月ダイヤ改正闘争を千葉地本の総力を上げて闘い抜くことが決定した。「九月北総電化と対決する反合運転保安闘争」であった。
9月25日から開始された安全運転・確認行動は、外房・総武本線を中心に闘われ、全列車の大幅な遅延として現れ、さらに28日を期して全線全職場で2割減速行動により無ダイヤ状態を作り出した。また27日の局前抗議行動には650名の組合員が結集し、その怒りと闘いの意欲を示した。
 この闘いで、動労千葉の基本要求の大幅な前進を勝ち取り、とりわけ、速度規制をDC列車と同様にすることに成功し、運転時分の設定も組合側がタッチするというかつてない成果を勝ち取った。 さらに翌年75年の3月ダイ改でも、特急列車の2人乗務を勝ち取り、電化による要員合理化を阻止した。
この闘いは、その後、75年以降の「線路改善闘争」に引き継がれる。資本・国鉄当局の合理化はまず保守部門から始まる。当時、千葉でレールが非常に劣悪化し列車が激しく振動するので、乗務員分科会が自分の足で各線区を歩いて線路の状態を調べ、そのデータを団体交渉の席に持ち込んだ。これにまともに対応しない当局に対して、安全運転闘争=最高速度規制闘争を対置した。線路の悪化は、線路の補修を合理化して、列車のスピードアップを行った結果だからだ。
 最高速度規制闘争は、管内でだいたい1日2000分から3000分、1列車に換算するとせいぜい5分くらいの遅れを出すものだった。これを毎日積み重ねて、それをダイヤに組み入れさせた。例えば千葉から津田沼まで20分だとしたら、25分のダイヤをつくらせた。文字どおりのダイヤ改正を実現したのだ。
 それまではダイヤ「改正」のたびに労働条件が悪くなっていたが、この時には、ダイヤ改正をやることによって労働条件がよくなった。さらに国鉄当局は76年から4カ年計画でをかけた千葉管内の線路の抜本的改善計画(90億円)を発表し、老朽化したレールの大々的交換が始まった。
 「合理化によって奪われた労働条件を奪い返す、防衛から攻撃の反合・運転保安闘争」を実現、「闘いなくして安全なし」を文字通り実証した。今日の安全運転闘争の原型である。

H零号信号機撤去! 船橋闘争、全面勝利へ

76年、船橋駅零号信号機撤去の闘い
動労千葉地本は、76年春闘3・17ストにさきがけ、船橋事故裁判完全無罪獲得、零号信号機撤去、運転保安確立を求めて、3月13日から千葉独自の強力順法闘争に突入し、千葉管内の列車は連日40〜50本の運休、10分〜50分の遅れをだした。この闘いを背景に、千葉鉄管理局を徹底的に追いつめ、「撤去すると2分半間隔のダイヤを確保できない」という主張を押し込み、ついに船橋駅の零号信号機を撤去させる画期的成果を上げた。
 構内零号閉塞信号機をめぐる論議は船橋事故公判闘争における技術論争(事故の原因)の焦点としても、反合・運転保安闘争における過密ダイヤの解消を実現するためのキーポイントとしての意味からも、労使としてともに譲れない問題として存在していた。72年3月船橋事故以来、動労千葉は合理化による運転保安の劣悪化とその改善を求めてねばり強く闘ってきた。そしてついに合理化の極地である2分半ヘッドを突き崩し、そして事実上国鉄当局に、「船橋事故の直接的原因は零号信号機」という事実を、地裁判決前に認めさせたのである。 

反動判決を粉砕し職場復帰を勝ち取る
 76年4月1日、400人の組合員、100名の県内労組員の見守る中、千葉地裁は船橋事故の高石運転士に対して「禁固3年、執行猶予3年」という反動判決を行った。
 動労千葉は、10日支部代表者会議を開催し76春闘第3波と結合させ、反動判決抗議、運転保安確立、高石運転士の休職解除を目標に4・14半日ストライキを闘うことを確認し、4月13日、津田沼電車区構内で組合員650名、県労連150名、総勢800名のスト総決起集会を行った。
 そして12日以降断続的に行われていた団体交渉は何ら進展がなかったが、13日深夜当局は今までの頑な態度を一変させ、休職解除=復職と零号信号機撤去に引き続く運転保安確立に大きく前進する回答を引き出した。
 @「特に高石運転士の復職については、乗務員の心情を理解し、誠意を持って引き続き協議する」
 A「信号停電時の保安対策並びにATSの機能改善については、組合の要求を前向きで検討し首都圏本部及び本社に対して対策の推進を働きかける」
 動労千葉1300名の組合員は、4月1日有罪判決直後に、当局をして高石運転士の解雇を阻止し、そして77年高石さんの職場完全復帰を実現させたのである。

動労千葉の原点=船橋闘争

 事故を起こした一人の組合員を守るために、全組合員が処分を覚悟して闘いにたちあがるという方針は、一人ひとりの組合員の動労千葉への大きな信頼関係をつくりあげた。反合・運転保安闘争によって、「一人は万人のために、万人は一人のために」という原点が、全組合員のものとなったのだ。
 三里塚・ジェット闘争、分離・独立の闘い、そして国鉄分割・民営化反対闘争等、その後のすべての闘いが、反合・運転保安闘争によって形づくられた団結力が土台にあったからこそ実現できたと言っても過言ではない。また動労千葉にとって、あらゆる闘いがある意味で反合・運転保安闘争と一体の闘いだった。例えば、国鉄分割・民営化反対闘争も「国鉄を第二の日航にするな」のスローガンを掲げて首をかけてストライキに起ちあがったことにも明らかなとおり、ある側面では運転保安闘争だった。