裏切りと動揺


先兵となった動労革マル

 動労革マルは、すでに82年1月には「職場と仕事を守るために、働き度を2〜3割高める」という悪名高い「働こう運動」を打ちだしていた。
  それでも当初はかたちだけは国労との共闘を維持していたが、たちまち馬脚をあらわす。
 82年ブルトレ問題でのぬけがけ的妥結を皮切りに、以降入浴問題、現協問題等々でつぎつぎに当局と妥結。東北・上越新幹線開業に伴う2・11ダイ改では、第一組合である国労をあからさまに無視する当局に抗議して、国労が6年ぶりに順法闘争をたたかっている最中、鉄労とともに当局提案を全面的に受け入れた。ここに動労を使って国鉄労働運動をつぶすというこの攻撃の出発点が形づくられた。  
  動労革マルはその最初から、極めて自覚的に、権力・当局との密通関係を結び、国鉄労働運動破壊の尖兵となることによって自己の延命をはかるという道を選択したのである。


スト圧殺のために動員した警察車両

攻撃の全面化と国労本部の動揺

 83年6月、国鉄再建監理委員会が発足。直ちに緊急提案をだすが、これは「国鉄再建」の権限が運輸省・国鉄当局から内閣に移ったことを意味した。国鉄当局はこれにせきたてられるように35万人体制の1年くりあげ(84年度)達成など「合理化前倒し」の攻撃を強化する。とくに84・2ダイ改では、動乗勤改悪に手をつけ、貨物でも従来のヤード輸送体系の全廃をもくろむなど、合理化に一層の拍車がかかったが、以降、単なる要員削滅にとどまらず、積極的に「余剰人員」をつくりだす攻撃が分割・民営化強行に向けた最も重要な施策になっていくのである。
   こうした攻撃の集約として84年7月に打ちだされたのが、いわゆる「首切り三本柱」(余剰人員対策3項目)であった。それは、@勧奨退職、A一時帰休、B出向、によって95年度首までに3万人の余剰人員を吸収するというもので、しかもこの三本柱への協力を、各組合との雇用安定協約再締結の前提条件としたのである。
   この理不尽な攻撃に、国労も当初は強く反発し、いわゆる「三ない運動」(辞めない、休まない、出向しない)を提起する。当時国労は激しい集中放火を受けながらも、なお20万8000人の組合員を擁する圧倒的な第一組合だった(84年9月時点)。
  前年3月には鹿児島地本で、懲戒免職8名を出す職場占拠闘争がたたかわれるなど激しい抵抗も起きていた。厳しい攻撃のなかで多くの労働者がたたかう方針と指導を求めていたのだ。だが国労指導部は組合員のこの思いを裏切った。
 

首切り三本柱と雇用安定協約の破棄 

 84年9月には動労本部が鉄労などとともに三本柱を妥結、率先協力するなかで、当局は国労との交渉を打ち切り、11月には雇用安定協約の破棄を通告する。この脅しに屈し、国労本部は、攻防の焦点となった翌年85・3ダイ改でのストの中止を決定した。
  だが肝心なことは、雇用安定協約の破棄という攻撃は、不安や動揺を煽りたてて団結にひびを入れ、労働組合の屈服を引きだす手段として持ちだされたものであって、労働組合や労働者が毅然としていれば、何ひとつ実際の効果があるわけではなかった。このとき労働組合の指導部がとるべき構えは、攻撃の本質をきちんと暴露し、その卑劣な手□にたち向かうたたかいの方針を提起することであった。
  しかしここでも動労千葉と国労は全く違う道をとったのである。

再建管理委員会が
最終答申

 95年7月、再建監理委員会は最終答申を提出し、そのなかで「87年分割・民営化」の最終的結論を打ちだした。 前月には国鉄総裁の更迭をもって、国鉄官僚内に根強く残っていた「民営化はしかたないが、分割には反対する」という異論も暴力的に粛正一掃されていた。分割・民営化攻撃との攻防はいよいよ重大な段階に突入した。だがこの決定的なときに、国労本部は「国鉄の民主的再生論」をかかげて、組合員のあふれる怒りと戦闘力を敵に向かって組織することをしなかった。総評は同年7月の大会で「三池以上の決意でたたかう」などと提起しながら、具体的方針は5000万署名運動だけであった。
  国労は五月の臨時大会で「三ない運動」の中止と三本柱の受け入れを決定したが、国鉄当局は、「まだ各地方に三ない運動の中止が徹底されていない」「実効があかつていない」と称して雇用安定協約の締結を拒んだ。(写真 再建委員会委員長  亀井 正夫 氏)

労使共同 宣言の裏切り

 翌86年1月、当局は動労、鉄労、全施労と「第一次労使共同宣言」を締結する。それは「国鉄の分割・民営化に全面協力し、民営化されても決してストはやらない」という奴隷の誓いであった。国労に対してはさらにハードルが上げられ、この労使共同宣言を結ばないことが、雇用安定協約破棄の理由になった。要するに敵は最初から目労の解体を目的にしていたのである。理屈は後から適当につけたにすぎないのだ。  
  もはやこの時点で、たたかう以外に活路が切りひらかれないことははっきりとしていた。しかし当時の国労指導部は、分割・民営化攻撃の本質とその尖兵になった動労革マルの正体を見すえることができず、最後まで、頭を低くすれば嵐を避けて通り過ぎることができるのではないかという幻想にしがみついていた。