新生動労千葉の結成

1979年3月30日
動労千葉結成大会
 このような闘いのなかで、動労千葉地本は組織と団結を強化し、動労内の最も戦闘的・民主的地方本部となっていったが、一方、動労本部は1970年代の後半から急速に変質を深め、1978年の全国大会では、@ストライキ闘争の放棄、A成田空港反対派農民との連帯闘争の中止等の方針が提起され、それに反対した千葉地本の大会参加者をロビーでリンチし、発言を封じるという状況に至る。
 そして1979年3月には、闘いを放棄する動労本部方針を拒否した千葉地本執行部全員の執行権・組合員権を停止し、さらに委員長以下4名の執行部を除名するという暴挙に走った。こうした状況のなかで、1979年3月30日、われわれは動労本部からの分離・独立を決定し、動労千葉を結成した。

 以降2年近くの間は、国鉄当局公認のもとに繰り返された動労本部の組合破壊のための職場への襲撃に対して、多くの重軽傷者をだしながら団結を守りぬくための闘となる。
 国鉄当局も、1979年12月に書記長を解雇、1980年5月に組織部長を解雇、1981年には3月2日〜6日まで闘いぬかれた成田空港へのジェット燃料貨車輸送阻止−6万人人員削減反対のストライキを理由に副委員長など4名の役員を解雇するなど、激しい組織破壊攻撃をしかけた。

動労本部からの分離・独立

動労革マルの襲撃をはね返して

組織破壊攻撃をはねのけ1300名超える組合員を結集
★79年〜81年 三里塚ージェット闘争