情勢を動かした90年1・18スト

二度もスト破り強制! 怒りをこめ国労と訣別

 国労四万の組合員は、動労千葉組合員同様に、国労という唯それだけの理由で何かにつけて差別・選別の仕打ちを受け、「国労にいると新会社に行けないぞ」という国や当局あげての恫喝にさらされながらも膝を折ることなくがんばってきた。 敢えて言って指導部のテイタラクにも拘らずである。
 その彼らが、今ここにきて自分の手で国労バッチをはずすということが、どれほど辛く、悲痛なものであるか、闘う労働者なら痛いほどわかるのである。ましては、敵から見れば不倶戴天の敵である動労千葉に結集するというのであればなおさら並大抵のことではない。
 周知のとおり、十二・五の第一波ストで四名、一・一八の第二波ストで八名(千葉転で七名、津田沼で一名)の仲間が、十五年、二十年と苦楽を共にしてきた国労と決別し、動労千葉に結集し、即座にストライキに決起していった。
 彼らの決起が「国労の中の一握りの例外的分子のハネアガリ」なのでは決してないことは言うまでもない。彼らは、苦闘する全国の仲間にむかって「今、何をなすべきか」を身をもってさし示しているのであり、なによりも彼らをそこまで追いつめておいて、今だ姿勢を改めようとしていない国労指導部を厳しく“告発”しているのだ。
 国労指導部に労働者的感性が少しでも残っているというなら、断腸の思いで国労と決別し動労千葉に結集し、決然とストライを貫徹した仲間たちに真正面からむきあい、彼らの“告発”に耳を傾けなければならないだろう。
 彼らの決起は、動労千葉の全組合員に百倍の勇気を与え、一.一八ストを見事貫徹する力となり、「清算事業団問題を全社会的問題」へとおしあげることに成功した。動労千葉は、仲間たちの訴えに応え、確信も新たに、いっそうスクラムを固めて、二〜三月にすすんだのである。

 そうした意味で一・一八ストで新たに結集した千葉転の仲間に、当時の様子や心境について聞いてみた。

『十二・五』それは辛く長い一日だった

A 
 俺たちが国労の組合員であることを本気で考え、悩み出したのは、動労千葉が「十二・五」で乗務員のストをやると決まってからである。それまでは、管理者もでかい態度をとっていたけど「スト」だと聞いただけで相当あわて出し、五日の乗務員確保に乗り出した。そういうことをキッカケにして、分会も連日、詰所での話し合いに入った。

B
 このまま行くと四年前の分割・民営化決戦のときのように俺たちが又スト破りをやらされる。もう二度とあんな事は出来ないというムードが分会全体に広がっていった。支部(動労千葉)の方は、それこそ目の色を変えて準備に全力をあげているし、どうするんだ、どうしたらいいんだ、という焦りで、乗務中もそのことで頭がいっぱいだったよ。
A
 それじゃということで、国労としては前から施設でストをやると決まっていたから俺らのところも指名ストに入れてもらおうということで地本に話しをもっていった。ところが地本は「国労は協定で平和条項を結んでるから七二時間前に通告しないとだめだ」というわけよ。そうこうしているうちにも時間がたつわけだから当局も焦りだす。

C
 分会も、五日のストの二〜三日前ぐらいからそれこそ寝ないで話し合いがつづいた。助役は、夜中でも家に電話してきて「○○仕業に乗ってもらう」「業務命令だ」と言って一方的に電話を切っちゃうとか、点呼のとき出勤時間だけ指示して退庁時間は言わないとか、それはおかしいんじゃないかということで追及しても何も答えないとか、とにかく当直の前は国労組合員で騒然とした状態がつづいた。助役に話してもラチがあかないということで、Aとか何人かの代表が何度も地本に足をはこんだ。

B
 そのうち繁沢支部長が「B変の呼び出しに応じないよう協力してくれ」と鉄産労と国労に要請にきた。鉄産労は要請を拒否、俺たちはどうするんだと地本に突きあげたわけ。最初は「(当局に)そんなことはさせない」と大見得を切っていたけど、五日が近づくにつれて地本の返事も曖昧になっていく。とにかく歩いても一〇分もかからないんだから来て説明してくれ」といっても結局一度も来なかった。頭に血がのぼったな。

A
 俺としては、当初国労は修善寺大会で“脱皮”したんだから少なくともスト破りだけは組織で拒否すると思っていた。しかし、地本も、本部も、俺たちの言い分に応えてくれなかった。国労で十五年闘ってきたわけだけど、こんなにみじめな気持になったのは、はじめてだった。こういう状況の中で二人の仲間が地本に抗議し、その場で脱退し、動労千葉に行ってしまった。俺としては、二人の気持は本当によくわかったが残った。国労も次はストライキをやると自分色言いきかせ、やっとの思いでとどまったというのが正直なところだ。

B 
 Aとほぼ同じ気持だった。当日(「十二・五」)は、動労千葉の仲間の顔をまともに見られなかったし、なにか目の前がまつ白になったような感じだった。一日がほんとうに長かったのを、今でも忘れない。
二度とスト破りは出来ない

A 
 俺たちは、「十二・五」スト以降、仲間と何度も話し合いをもった。ぶざまなスト破りはもう絶対出来ないし、来年は清算事業団の決戦の年なんだから、今度のストライキでは必らず指令を下させようじゃないか、ということで行動をおこしていった。

C
 十二月一五日、拡大地.方委員会が開かれ、何人かでそれにおしかけた。それこそ、声がかれてしまうほど「十二・五」での本部の無責任というか指導放棄を批判した。他からも相当激しいヤジが出ていた。そういう雰囲気に動かされてか樫村東日本委員長は「当局のスト破りに抗議しなければならない」と発言。もっとも樫村委員長は、いつも言うことは、カッコいいことを言うけどね。その時はそれで一応おさまり帰ってきた。

B
 十二・五ストの後、組合不信というか、幹部不信が、蔓延していった。それは、そうなんだよ、みんな国労だということで処分くったり、色々いじめられてきた。当局に頭にきているし、間違ってもJR総連や鉄産労と同じように見られたくないということでフンバッてきたんだから。それを、本部や地本はスト破りを“強制”したんだから、怒るのも当然だよな。

C
 「処分をくってもいいし、『犠救』もいらないから指名ストに入れてくれ」とまで言って頼みこんだのにそれも通じなかった。

A
 十二月中旬になって、国労は来年一月一八日ストライキをやるということが決まり、さっそく分会で執行委員会を開いた(十二月二八日)
 年の瀬ということだったけど、ほとんどが出席し、清算事業団組合員の雇用確保の実現に向けて全力でがんばることを確認し、二波、三波のストライキでは千葉転分会を拠点に組み入れるよう地本に要望書を出すことが二つ返事で決まり、さっそく提出した。みんな「ヨーシ、今度こそ」と、はりきって年を越したわけだ。

  いよいよ決戦の九〇年

A
 年が明け俺としては、「いよいよ闘いの年を迎えた」という気持で、ずいぶん気合が入っていた。一月八日、地本は拡大分会長会議を開くというので数人で傍聴にいった。動労千葉も一・一八にストに入ることが予想されていたので、そこでどういう戦術が出されるのか、気や気でなかった。

A
 拠点や戦術の説明を聞いていて途中から頭に血がのぼったな。要するに国電、新幹線、主要幹線の乗務員は二〜三月ストに入る予定ということで千葉転もはずされていたからだ。

C
 いっせいに質問や抗議が殺到した。「動労千葉がストに入るときは千葉転、津田沼はストに入れろ」「十二・五で脱退者まで出ている、どう責任とるんだ」など激しいつき上げがつづいた。

B
 このままでは又「十二・五」と同じ状況になってしまうという危機感から「組織防衛のためにもスト拠点に入れて欲しい」と必死で訴えた。はっきり言って、祈る気持だった。しかし、背広にネクタイの地本幹部は何も答えない。ヤジの中には「お前ら、当局と同じじゃねえか」「JR総連にでも行け」とどなりつける傍聴者もいたよ。

C
 この日発言したのは、確か、千葉転と津田沼からだけだった。普段は「俺は共産主義者だ」「協会派だ」とエラそうな顔をしている連中も、いよいよ清算事業団の決戦だというこのときになったら、下を向いて黙っている。やつらを見て、頭にきたというより、なさけなくなってしまった。

A
 会議は、何度も同じことをくり返し、しまいには「しょうがなく」地本は「スト拠点」は入らないが、特休・公休呼び出し、B変については当局と交渉し、労働者の権利を主張する」と答え、時間切れで職場に戻らざるを得なかった。はっきり言って、地本の答弁に期待はもてなかった。

刻々と『一・一八』がせまる

A
 一・一八ストの五日前(十三日)、時間が刻々とせまる中で、運転代表者会議が地本会議室で開かれた。千葉転から勤務者以外全員と、津田沼、銚子運転区両分会からも多数の組合員が傍聴につめかけた。会議は最初から殺気だっている。そういう中で、主に千葉転から「処分をくってもいい、「犠救」もいらない」「スト破りだけはさせないでくれ」と年配の組合員も含め、全員が本当に必死で何度も何度も訴え、詰め寄った。だけど、結局平行線のまま朝をむかえてしまった。

C
 怒った組合員が「こんなことでは組織はつぶれてしまうぞ」「事業団の仲間を見殺しにするのか」という問いかけにも役員全員、首をタテにもヨコにもふらないという俺の一番嫌いな態度に終始、本当にムカーときた。中にはがまんできなくなって机をひっくりかえす者も出る始末だった。それでも無表情の執行部を見て、俺は「あ〜、これが俺たちの国労なんか!」と、全身の力がぬけるようだった。


信義も断たれ

B
 時間切れで朝になってしまった。これじゃ話にならないということで、代表十六名が東日本本部におしかける。

K
 執行委員が対応に出たので地本から一緒に行った役員の三者で話し合い、三点について確認した。
一つは、本部方針でやる。交渉が進まないときは二〜三月ストを拡大する。
二点として、特休、公休の呼び出しは拒否する。会社が変更する場合は指名ストに入れる。
三点として、安全無視、社会的常識に逸脱する変仕業は地本の判断で指名ストに入れる。
 これを一四日に支社に通告する。というので、それじゃということで、はりきって千葉に戻ってきた。

A
 ところが、一五日、それを地本に確めるために電話すると、全くふざけたことに、支社にスト通告もしていないし、「指名ストはない」「そんな約束はしていない」っていうんだよな。マジに言ってガックりきた。そのことを皆んなに言うと、もう黙ってしまって何もしゃべらなかった。

B
 当局は国労の腰ぬけぶりをいいことにしで片っぱしから呼び出しをかけるという態度に出てきた。俺たちは「いっさい電話に出ないようにしよう」とか色々相談したり悩んでいるうちに一七日、夜をむかえてしまった。ギリギリまで話し合い、地本に「最後」まで訴えつづけたけど、だめだった。十七日の深夜ついに決断、動労千葉に結集した。

A
 国労と決別し、動労千葉のろう城先に駆けつけたとき、とめどもなく涙が出てしまった。俺だって、勤めてから一五年間国労のためにと思って一生懸命やってきたつもりだ。いやがらせや差別されながらも国労が好きだったし、正しいと思ったから役員もやってきた。動労千葉のストライキのときだって業務命令で乗せられ、目の前が真暗になりながらも、いざという時は国労も必らずやると信じ、最後まで望みを捨てずにやってきたんだ。
 だけど、国労幹部は最後まで応えてくれなかった。一度といわず二度もスト破りを強制してきたんだ。俺たちは、そんなことは出来なかった。