甦えったストライキ 

一発のストライキが流れを大きく変えてしまうということが労働運動や人民の闘いの中でしばしばおこる。
 一九八九年十二月五日の二四時間ストライキ決起がそれであった。

 

 清算事業団の時限立法の期限切れが刻一刻とぜまり、全国で約千五百名、動労千葉十二名の清算事業団の仲間は三年間の屈辱と怨念をかけて、ここ一番反撃にたつ決意が日増しに高まってゆく。だが清算事業団闘争の最大の当事者たる国労中央は、とりまく主客の有利な情勢を活用しきってJR本体と清算事業団を貫く総力戦を展開する方針を出しえず、日一日が無駄に費やされていた。
  他方、JR総連革マルは、「無駄飯食いの清算事業団の首を切れ」と一段とオクターブを上げ露骨に敵対を強めている。“情勢"は待ったなしである。
 まさに、そうした“沸騰点”で動労千葉は決断した。十二・五東中野駅事故から一周年、「分割・民営化」強行以降初の列車を停めるストライキへ真一文字に突きすすむのである。
清算事業団の仲間を先頭に、JR本体の組合員、そして争議団となって闘っている被解雇者が心をひとつにして、大きな課題にたちむかった。
 いよいよ、専制的「JR体制」への反撃の開始である。

 「我々国鉄労働者にとって、現在の攻防局面がいかなるものかはっきりとつかまなければなりません。 十二月五日のスト、一月一八日のストと一ヶ月ごとにストライキをやった。二〜三年前には考えられないようなことがやりぬけたことは、やれる情勢が到来したことであって、われわれがストをやりたいからやったわけではない。ストを打つということは簡単なことではない。スト権があろうが無かろうが大変なんです。 それがやれたということは、客観的に機が熟してきたそういう情勢なり条件が到来したということなんです。」
 
 少し引用が長くなったがこれは、第一波十二・五、第二波一・一八ストを闘いぬいた直後の一月二七日、動労千葉労働学校での中野委員長の講演の一部である。委員長のこの日の講演は二時間余の持ち時間を一息も入れず、熱っぽく一挙に語り尽し、出席者をして「きょうの委員長はずい分気合いが入っているなあ」と言わせしめたほどである。JR体制以降の最初の乗務員のストライキにどれだけの神経と精力を注いだか、よくうかがえる一例である。
 動労千葉は、「分割・民営化」決戦(一九八五年十一月から)で二八名の役員・活動家が首を切られ、十二名の仲間が清算事業団に送りこまれた。総数四十名の中心的担い手が職場から切りとられたのである。文字通り満身創痍での出発であった。そこに追いうちをかけるように約百名の仲間が強制配転で運転職場を追われる。
 だが、組合員は決してあきらめたりはしなかった。敗け犬になり、当局やJR総連に尾をふり、生きのびようとする奴隷の道をキッパリと拒否し、反撃の機をじっと待ち、時には売店や地上勤務の仲間たちのストを組織の総力戦で一つ一つ戦いとり、その中から列車を停める本格的ストライキヘの態勢を創りあげてきた。むしろ、九〇年、清算事業団決戦を何が何んでも闘いとるという目標から逆規定し、三年間、職場での抵抗を「本番」として構え、闘いながら組織の足腰を鍛えてきたといっても間違いではない。そうした積み重ねのうえに十二・、五ストはかちとられたのである。
 「二、三年前には考えられなかったストをやりぬけた」という委員長の感概無量の気持は、組合員みんなの気持なのである。