国鉄解体―この反社会的暴挙 

「新自由主義に基づく新国家主義」批判 破防法研究bT3 1986年2月発行

(鎌倉孝夫 埼玉大学教授)

人間関係を、人間の生存自体を解体化させようとする新自由主義路線に対して、労働者はいまこそ互に連帯し、団結して、社会の主人としての実力を行使する以外に、現状は変革しえない。その実力行使の最大の手段はストライキである。

 


1985年9月30日 鎌倉さん

新自由主義と新国家主義

 新自由主義路線の壮大な実験の場、その貫徹の試金石、そして、そのもとでの新国家主義の確立、ここに国鉄分割・民営攻撃の本質がある。
 新自由主義路線とは、根本的には今日経済、政治、社会を支
配する独占体の"自由"な活動を保障しようというイデオロギー、政策である。それは内容的にいえば、第1に、社会のあらゆる領域に、商品経済=.市場原理を導入し、競争による弱者の淘汰、強者の支配を貫徹させようとするものである。福祉、医療、交通、通信、教育等人間の社会的生活条件に関わる領域にまで、市場原理―商品としての供給と貨幣による需要―に委ねようというのである。公的負担、助成によるこれらの部門の維持、享受は、個人の自主性、自己責任、向上へのインセンティブを失わせ、悪しき平等主義、画一主義をもたらすという認識がその背景にある。したがって市場原理の下で、個々人をそれぞれの責任で競争させ、自立、向上の責任、能力を高めようというのである。結果としての不平等、強者の強化、弱者の切捨ては、個人の能力、向上心の差に基づくものとして当然視されることになる。いわば社会ダーヴィニズムの思想に根ざすものといえよう。 第二に、市場原理目,需給関係に委ねるということは、当然民間企業=個別資本がこれらの領域を担当するものとなる。
 民間資本は当然に利潤原理を基準にし、私企業的効率性追求を動力とする。したがって利潤・採算のえられない分野・領域は、いかに生活(文化、教育、産業を含めて)に不可欠であっても、放棄されるし、競争に敗れ、没落する産業、企業は、国民的に需要されない、つまり“公共”的でないものとして切捨てられる。これらの領域が維持されるにしても、商品として供給されるのだから、当然にも受益者負担、つまり個人が貨幣で需要して享受するもの、とされる。こうして経済的条件の差によって、生活上の大きな格差が生じるし、 交通機関の民営化は、地域によっては生活、地域産業自体の破滅をもたらすことになる。むしろ人聞生活に直結した領域への独占体の“自由”な参入、侵入を認めることによって、生活領域を、すなわち人聞と人間との直接的関係=共同体的関係によって成り立つ領域を商品関係に解消し、資本の利潤獲得の手段としてしまおうというのが、新自由主義なのである。

 第三に、利潤原理を基準にした効率性追求が唯一の価値基準とされることから、労働条件は切下げられ、雇用削減は確実に進む。コスト削減、効率性追求の中に労働者をも巻き込み、企業間、産業問競争をあおり、労働者を相互に競争させ、分断、格差化を図ることになる。コストが低いことはよいことだ、効率性が高いことはよいことだと労働者が考えている限り、確実にこの方向に労働者は巻き込まれるし、労働組合の連帯を自ら破壊してしまうことになる。  


1986 勝浦家族会

 第四に、新自由主義はいまでは政治の領域にまで広がろうとしている。例えば「経済白書」一九八五年版にはこうある。

 「公的部門全体としてみると、社会福祉、教育、公衆衛生等では、受益は広く困民一般に及んでおり、財政支出から受ける便益は、所得の比較的低い層に手厚くなる傾向がある。これに対し、財政支出の負担は所得の高い層に比較的重くなる傾向があるため、それぞれの所得層をみると、受益と負担の間に不一致が生じる面がある。一方、財政支出を決定する政治過程では、一人一票の原則のもとで平等の参政権が確立されている。この結果、受益に比較して負担の軽い層が投票者の多数を占め、財政支出は拡大しがちになる面がある」

 所得や税金負担がどうであれ、一個の人間として平等な参政権をもつことは、民主主義制度の根幹である。ところがこの主張は、国家への税金負担に応じて参政権の違いを認めるべきだといわんばかりの主張である。まさに所得や税金負担という商品的財産、所有を基準に人格上の差別を認めるという、本来の基本的人権を否定する主張が行なわれているのである。これこそ新自由主義の物的、非人間的本質を示すものといえよう。
 しかし、新自由主義は、おおらかな、とらわれのないA・スミス的自由主義とは全く異って、徹底しえない、後暗いイデオロギーでしかない。
 第一に、政府規制の緩和、民間部門への介入の排除、民間部門の自立を強調しながら、大企業に対する軍需支出や公共事業支出による援助、さらには大企業への技術開発援助は、やめようとは一口もいわないばかりか、逆にいよいよ拡大している。スミス的自由の復権を声高に叫ぶ、レーガンのブレーンであるフリードマンは、レーガン大軍拡について一口もふれていない。

 第二に、大衆の自立、地方の自立を主張しながら、やっていることは弱者切捨て、生活圧迫の補助金、助成金の削減だけであり、大衆の管理、統合に関わる補助金や統制は明確に維持、強化されているし、中央の地方に対する管理は逆に強められている。“カネも出すが口も出す”から、“カネは出さないで、口を出す”という方
向への転換である。
 第三に、独占体の“自由”な活動はいまや国境を越えた独占体の世界的進出、しかも金融部面を中心にあらゆる領域へ進出し、多国籍企業化して拡大している。
 しかしこれも、国内体制が、例えば競争に敗れた産業、企業によって形成される失業の激増やそれに伴う社会不安、治安維持の困難.に直面すると、自由は放棄されて、たちまち保守主義、国家主義が台頭する。
 しかし、新自由主義が、まさに体制の新たな統合上のイデオロギーであることからいって何より重要なのは、決して労働者、大衆を商品経済的価値観と競争の中に巻き込み、分断させるだけではすまない、ということである。すなわち、新自由主義は、必ず新たな国家的統合上、国家的価値観、倫理観への国民大衆の同化を図ろうとするのである。欧米では、キリスト教的倫理、道徳観の強調が必ず新自由主義路線に付着しているし、日本では天皇制イデオロギーを頂点とする伝統(といっても明治期につくられた"伝統"にすぎない)的な共同体的価値観がもち出される。国鉄改革、地方行革だけでは、新自由主義は決して徹底しないのであり、教育改革によって、教師の思想、子供たちの思想を国家的に管理し、国家至上主義の価値観を与えようとすることになるのである。
 すなわち新自由主義は商品経済的関係を人間労働と生活のあらゆる領域に貫徹させ、商品経済的な弱肉強食の競争の中に大衆を巻き込んでその共同性、連帯を破壊し、バラバラにさせ、こうして企業と国家への大衆の統合の社会的碁盤をつくり上げ、その上に国家至上主義的な価値観の下に大衆を教化、同化し、強力な国家体制を築き上げる--まさに独占体による専制的支配を保障し、新たな対外侵略を実現する国家体制を築き上げようとするもの、といえよう。
 私たちは、このような新自由主義に基づく新国家主義、侵略国家づくりを絶対に認めてはならない。それには、いま多くの大衆が、そして労組、革新政党指導部を含めてとり込まれているプチ・ブル的、商品経済的価値観を克服し、生きる原点に基礎をもつ、真に労働者としての価値観、絶対に労働者が互に競争し、分断に手をかすのではなく、連帯、団結する以外に展望はありえないという価値観を強固に打ちかためなければならない。

  新自由主義と対決する原理・価値観とは

 
1986年 第2波スト 津田沼

 たしかに現代は、過渡期であり、実践と行動の時代である。しかしこの現状を変えうる、すなわち変革する実践、人間が人間らしく生きる方向に変えうる実践とは何なのか。それは、今日の体制統合の原理、あるいは価値観に決定的に対決しうる原理、価値観をもった実践以外にない。
 すなわち、労働者が、労働者としてふさわしい価値観をもち、働く者を社会の主人にする実践以外にない。まさに人間関係を、人間の生存自体を解体化させようとする新自由主義路線に対して、労働者はいまこそ互に連帯し、団結して、社会の主人としての実力を行使する以外に、現状は変革しえない。その実力行使の最大の手段はストライキである。
 動労千葉のまさに生命をかけたストライキに対し、労働者階級である以上、連帯し、みずからもその隊列に加わること、あるいはその条件をきり拓くこと、これは働く労働者の立場に立つ限り自明のことである。動労千葉のストライキは、国労組織の内部においても大きな共感を呼んでいる。
 ところが多くの労組指導部、いわゆる革新陣営は、ストライキ行使自体を『暴挙』であるとか、『小児病』であるとか、したり顔して非難している。ゲリラ活動と労組のストライキとを全く区別しえないどころか、なぜストライキに訴えねばならないのか、なぜゲリラ活動を起こさねばならないのかの根拠、原因をさえ明らかにしょうとしない。労働組合の正当な権利としてのストライキを自ら否定し、『反社会的行為』と非難することは、国鉄分割・民営化の攻撃自体が『反社会的行為』であることをも消去させてしまうことになる。動労千葉のストライキによって、国鉄分割・民営化阻止の行動が困難化したと非難することは、逆にみずからのそうした非難こそが国鉄分割・民営化攻撃を推進することになるということをさえ認識しえない全く傾倒した主張である。


1986年2月22日 千葉運転区前

 新自由主義という"自由〃を名にした人間性破壊の攻撃、行動が推進されているとき、いまこそ本物の労働運動がためされている。
 残念ながら労組、革新政党の幹部、指導部は、本物を見分けられないでいる。たしかに多数派結集が必要だろう。しかし体制の価値観と同じ価値観の上に立って多数派を結集しえたところで、―多分それでは多数派結集さえ行ないえないであろう。なぜなら体制の価値観を前提にするなら、権力をもつ側こそがつねに勝利することは自明であり、労組、革新の存在理由はないのだから―現状を変えることは不可能である。労組、革新政党の側が現状の価値観に立ち、現状の社会的秩序=商品経済的秩序の維持を目的として行動を行なっている限り、いかに観念的にはその行動が労働者の利益に即していると主張しても、現実には体制側の管理・支配は強化され、体制側の思惑通りに現実は進行してしまう。事態が不透明、不確実なのは、労組、革新側の主観と現実とがズレている、主観的思い込みが誤っているからだ。
 むしろ体制側が意図していることは、真に現状を変革しようとする意識や行動に対し、大衆の側を、さらに労組、革新政党の側を、これに敵対し、これを孤立化させる行動に走らせることなのである。現状を変革すべき主体的勢力を分断し、互に対立させ、変革の意識、行動を孤立化させ、消滅化させること、それこそ支配の常套手段である。現状変革を志向する部分の過激な行動が、大衆を、あるいは労組革新指導部を、保守の側に引寄せたとして、前者を非難することができようか。むしろ前者といかに連帯し、あるいは連帯しうる条件をつくるか、いかに前者の行動を拡大するかをこそ追求すべきなのではないか。時代の混迷、不透明を招いているのは、ほとんど主体側の責任なのである。むしろ体制側の実に階級的本質をもった総行動をとらえたなら、今日の時代ほど透明、確実な時代はないといえるのではないか。真に現状を変革しうる『質』をもった意識と行動が、鮮,明に浮び上る時代といえよう。しかもそれはたんに口先きだけの、あるいは実践と遊離した観念の中のものでなく、地についた実践の中で浮び上るものではないか。いまは孤立していても、生きる原点に根ざした行動は、確実に大衆的共感を呼び、燎原の火の如く燃え上るにちがいない。

              (かまくら・たかお埼玉大学教授)