●動労津山大会 革マルの集団テロリンチ

 

 

 

 

 

 


 

 

動労千葉襲撃の40日間

―革マル恐怖支配崩壊への第一歩―

浅田光輝 1979年「破防法研究」掲載

 


浅田光輝氏 330結成大会

はじめに

 動労千葉は、ことし3月下旬にはじまって5月のはじめにいたるおよそ40日のあいだ、中央執行部が全国に指令して組合員を強制動員した、「千葉地方本部再建のための中央オルグ」なる名称による暴力集団のあい次ぐ波状襲撃に直面した。「暴力集団の襲撃」という言葉を使ったが、これはオルグなどという生やさしいものではない。文字通り、千葉執行部の殲滅・組合機関の力による占拠を目的にした、集団的破壊攻撃そのものである。多いときは一日1500、少なくて一日500、それが200、300の集団に分れて千葉地本各支部に殺到し、青竹、投石、バール、金ノコを以て、千葉組合員の勤務する庁舎、支部組合事務所を襲撃した。
 組合がまさかそんなことを―と疑う者があれば、千葉地本のそれぞれの支部、新小岩、津田沼、千葉運転区、勝浦、館山など、駅構内の庁舎と組合事務所を一見すればいい。そこにはいまも、壁やドアに破壊の痕跡がそのままとどめられているはずである。
 そのことごとくは、襲撃集団の何分の一かの少数の支部組合員の防戦によって撃退された。そのなかで、攻撃を集中され津田沼支部では、支部長が頭蓋骨折の重傷、数名の組合員がそれぞれ重軽傷を負うという事態も生じている。これは相互の攻防のあらそいのなかで生じた負傷というものだったのではない。攻防は二時間近くにわたったが、そのあげくに建物におし入った数十名の集団が、なかにいた支部長以下の数名を一室にとじこめて青竹をふるい、靴で蹴上げるというリンチを加えた。頭蓋骨折などの負傷は、このリンチによって生じたものである。しかも、ここで暴行を直接に担った集団は、あきらかに、動労組合員ではない、異質な外来者であった。そのことを、負傷した千葉の労働者が確認している。動労中央執行部のいう「オルグ」とは、意見を異にする者を集団で襲撃し、暴力団を導入してリンチを加えるということだったのである。

1・31をめぐる奇怪な動き


8年2月15日 動労101定期中央委員会に駆けつけた動労千葉組合員

動労千葉にたいする「オルグ」いう名の襲撃の企ては、1978年2月15日から三日間開かれた101回定期中央委員会で、千葉地本委員長以下三役、青年部長以下三役の6名を査問に付するという決定があって以降、年末年始あたりからさまざまに兆候を示しはじめていた。それが、やはりそうか、とはっきり形が見えたのは、今年79年1月31日のことである。
 この日を指定して、本部は、林委員長の名で、千葉地本にたいし、執行部と支部役員八十数名を指名の上、本部中執・関東地評役員との交流会を開く旨を通告し、千葉の八十数名の全員が前夜から本部の準備する東京の旅館に宿泊するよう求めてきた。千葉と東京は眼と鼻である。前夜から泊りこむ距離ではない。それに、旅館の割り振りは、執行部と支部役員を切りはなして指定している。これは当然といえばいえないでもないが、そこには支部役員を執行部から切りはなして懐柔しようという意図が見えすいているととることもできよう。千葉地本側は、これをそのように判断して、当日の出席を見合わせた。
 ところで、その30日から31日にかけて、群馬県水上温泉の旅館に、「動労関東会議」と称して高崎地本組合員の名儀で宿泊の申込みがあり、30日は30人、31日には300名近くが集結して泊りこんでいるという事実がある。水上は、東京へ急行で二時間余りという距離である。千葉の執行部・支部役員の全員が留守になるはずの日時にタイミングを合わせたこの動労を称した大量の人間の動きは、いったい何を意味するのか。おなじ1月31日、東京の田端機関区、品川機関区に、動労を名のる200から300の集団が集められていたという情報もある。
 水上に一夜を過した300人は、千葉地本の執行部が本部の召集に応じなかったためか、2月1日の午前、特急と急行に分乗して東京へ向い、そのまま為すところもなく四散した。だが奇怪にも、かれらが上野行きに乗車するのに時刻を合わせたように、千葉の津田沼電車区周辺に多数の機動隊が出動し、配置についている。
 31日に、中央の林委員長から、千葉が「交流会」をボイコットしたことを詰問する電話があった。応対にでた千葉の関川委員長が、水上に動労を名のる集団の動きがある事実をあげて逆になじったところ、林は、「本部はそんな集りがあることを知らされていない。本部の知らないそんなことがあろうはずはない」と、しどろもどろであったという。おそらくそれが真実だろう。林は事前に何も知らされない。事がおこなわれてしかるのちに、その事のいかんにかかわらず、何ごとにも無条件で承認をあたえるという職責のためにのみ委員長の席につけられている存在なのである。林の委員長としてのこれまでの去就は、一切がそういうものであった。78年7月3日から5日間、岡山県津山市で開かれた動労第34回全国大会において、大会準備委員・整理係と称して議場に配置された集団が終始議事を妨害し、千葉地本代議員、傍聴団に公然と襲いかかって多数の負傷者を出すいうことがあった。林は、委員長として議場にあり、事態の経過をつぶさに目撃しているにもかかわらず、千葉地本の抗議にたいして、大会開会中にそういう暴力の事実はなかったという答に終始した。おそるべき人間の頽廃である。
 このように、委員長も知らない動労内部の異様な動きは、やがて次第に委員長も執行委員会もまきこんだ公然たる動きにおし上げられてゆく。

 3・20執行権停止3・30地本執行部への大量処分

 2月中には、第102回定期中央委員会が開かれる予定であった。春闘のさなかの中央委員会として、年間を通じ、きわめて重要な会議である。それに先立って、議案を準備するための中央執行委員会がある。その中執の会議は、2月5日に召集されたが、結論が得られず、14日、22日、28日と、2月いっぱい四回も回を重ねてくりかえし開かれた。闘う動労として、春闘の方針が念入りに討議 されたということなのではない。ここで本部が執拗にくりかえしたのは、千葉地本にたいする組織的処分ということであった。それが中執内の反論をよび、本部の強行案が宙に浮いたということである。本部は中執に、千葉地本の「執行権停止」処分案を提出したが、同意を得られず、本部の強硬案は流産した。通常ならば、内部にそれほどの反論があるなら、提案は取り下げるということになるだろう。
 しかし動労の本部を独裁するグループ(革マル)は、そんなに素直ではない。かれらは、本部の職権で、林委員長の名により、そのことだけのためにくりかえし中執を召集した。笑うにたえないのは、2月5日の中執ののち二回目に召集された14日の中執で、その日の召集が委員長にことわりなしにやられているということで、林が怒り出し、城石組織部長を怒鳴りちらして、会議の形をなさず流会したということである。動労中央の内部が、いまどんな状態にあるかをうかがわせる恰好のエピソードである。
 ともかく、そんな風に、本部は春闘方針などはそっちのけで、千葉処分の形をつけようとなりふりかまわず執拗に喰い下り、反対する中央執行委員にたいして恫喝と詭弁と懐柔を重ねたあげく、2月末ギリギリの28日にようやく、はじめの「執行権停止」を、「執行権停止にあたいする」とトーンを落すことで結着をつけることに漕ぎつけた。「あたいする」とは、形をなさないまことに奇妙な方針だが、そんなことばの取り引きに応じて屈伏した中執の責任は今後に残るだろう。
 中執の結着をまって翌日ただちに召集された3月1日、2日の102回定期中央委員会は、中執の提議どおりに、「千葉地本は執行権停止にあたいする」と決議し、本部の要求するまま、「処置を中執に委ねる」と決定した。本部はこの定期中央委員会で、千葉の執行権停止を決議させるつもりであったのが、一歩後退を余儀なくされた。この動労内部の動揺を見ることは重要である。だが、「執行権を停止する」も、「停止にあたいする」も、千葉攻撃のために組織上の大義名分をあたえるものであったことに変りはない。中央委員会の決議と同時に、まちかまえたように暴力攻勢の具体的な兆候が動き出した。

 3月5日には、東京地本青年部による集団オルグの計画が、公然と組合事務所に貼り出され、津田沼がその焦点とされる気配があったが、千葉がいち早く組合員を結集して防衛体制を固めたために、攻撃は未遂に終った。
 3月13日、本部は緊急中執を召集して、「千葉地本の執行権停止を確認。その実施はしばらく猶予し、その間に千葉組合員のオルグをおこなう」という方針をみとめさせ、千葉地本執行部の頭を越えて、地本の各支部へ直接、本部オルグが入ることを通告した。これは、支部ごとに組合員を再登録して、支部を地本現執行部から離脱させ、千葉地本を本部直轄の下に再組織するということである。このいわゆる「オルグ」は、19、20日の両日と通告された日に、全国地本の書記長、組織部長、青年部長を集め、それに関東を中心とする青年部員を動員して、総勢およそ500人、本部役員の引率のもとに分散して千葉の各支部へ向かったが、どこでも、まちかまえた組合員たちに、本部の暴力支配、「水本」問題による組合引きまわし、三里塚にたいする敵対、貨物線合理化への妥協屈伏路線を糾弾されて、為すところなくわずかな時間で退散、それぞれ予約した旅館にとじこもってしまうという始末であった。そのなかで、千葉
運転区におしかけた80名は、「オルグ」を拒否されて、組合ビラをひき剥し立看板をこわして燃すという、児戯に類する腹いせをやって引き上げている。
 なお、本部が中央委員会の決定をタテに、中執および全国地本の役員を参加させて強行したこのキャンペーンで目立ったのは、駆り出された中執や地本役員たちのやる気のなさである。また、実力部隊として動員された青年部集団の志気の低さである。中執の背後に群をなして気勢をそえるために大量に動員されたはずのこの青年部集団は、何人かの中執が幕張や津田沼の支部へ出かけようというのを、西船橋駅と西千葉駅で電車をおりるなり、フォームいっぱいにたむろして何時問も動こうとせず、そのためやむなく中執と役員が数人で支部へ出向いて、逆に千葉組合員に弾劾されるという始末である。津田沼へは5人の中執がやってきて支部組合員たちに囲まれ、「去年の全国大会で、千葉の代議員に暴力をふるったのは統制違反じゃないのか」と追及されて、一人が「全国大会に暴力の事実はなかった」と強弁しているのに、一人は「いや、あった。私はそれを見た」と卒直にいう。全国を動員した「中央オルグ」とは、そういう一貫したもののない寄せ集めであった。
 そんな風に、ふれこみだけは大きかった3月19、20日の「オルグ」攻勢は、千葉地本のどの一角にも手をふれることができないままに終った。20日の朝、林委員長の名で、千葉がオルグをうけいれなかったということを理由に、「執行権停止」を電話通告してきたが、あるいはそれがかねて予定された順序だったのだろう。

3/30結成大会

 3月30日、千葉地本は臨時大会を開き「執行権停止通告」の拒否を満場一致確認、それとともに今後の千葉の組合活動確保のために、独立の交渉権を保持するために新組合の結成を決議した。その審議の席上に、本部がそのおなじ日に召集した103回臨時中央委員会が、千葉地本の関川委員長、中野書記長など四名を除名、西森副委員長ら一〇名を権利停止処分という千葉執行部解体の大量処分を決定したという通告が入る。かねて予想されていた成り行きである。

破壊「オルグ」始まる

 4月7日以降、本部オルグによる千葉組合員の家庭訪問がひんぱんになる。組合費を払うな、千葉執行部の動員や会議召集をボイコットせよ、本部側の団結署名に応ぜよ―組合員の個別切りくずし攻勢であるが、応ずる者はだれもいない。勝浦では、家庭をまわっていた6人が捕捉され、ひとりひとり自己批判書を書かされた。新幹線地本と東京地本の役員、いずれも本部を占拠する革マルの拠点とされている地本である。そのなかに、19歳のあどけない少年がいた。東京地本の組合員であるが、勤務が明けて休みたかったのに、千葉に行けといわれ、わけがわからずについて来た、いうことをきかないと組合で何をされるかわからないから一と、かれは言っていたという。そんな形で、何も知らない大勢が、何も理解しえないまま、本部指令という強制に駆り立てられて、千葉に敵対させられているのである。
 その後のことであるが、支部に集団「オルグ」でおしかけてきた連中をあい手に、支部組合員が、三里塚や貨物合理化や、「水本」問題など、本部路線の不当を数え上げて追及したところ、おしかけたなかの一人が、「水本」は動労組合員じゃなかったのか、自分はいままでそう思いこんでいた、といい出したという話もある。組織の引きまわしは、人の脳髄にとんでもない妄想を産みそだてる。動労に「水本」を持ちこんだ者が、まさかそんなことをいいふらしたとは到底考えられないが、この青年労働者は、動労が何故「水本」で大さわぎするのかを納得しえないまま、かれなりに「水本」というのは動労の仲間だから、それで組織をあげて集会などに動員するのだと思いこみ、自分を納得させたということなのだろう。
 4月11日には、代々木公園で、総評青年協主催の「全国青年労働者春闘総決起集会」がある。それに日取りを合せて、動労青年部は、前日の10日に社会文化会館で、「全国青年部総決起集会」と称する集りを召集した。その余勢を駆って、津田沼支部へ200人、千葉支部へ100人が、青年部役員にひきいられておしかけるが、予期した千葉側の対抗姿勢に阻まれて退散。青年部の「決起集会」とは、春闘にたいしてではなく、「総決起」せよということなのだろう。

4・11錦糸町駅襲撃事件

 ところで11日の代々木公園には、千葉の青年部は当然例年どうりの参加の手筈をととのえ、全県各支部の青年部が錦糸町駅に集合して、そこから代々木に向うという予定になっていた。ところが、その錦糸町駅のフォームいっぱいに400余りが待ち伏せ、千葉の労働者が支部ごとのグループで次々到着するのを、取り囲んで殴る、蹴るの暴行を加え、旗、横断幕、ヘルメットから、衣類、所持品まで強奪するという行為に及んだのである。
 千葉の青年部は、到着する列車から次々降りてくる仲間を、おそいかかる暴力のなかで一つに結集し、180人あまりが固まって400人の重囲のなかを移動し、駅の端の乗務員駐泊所の建物に立てこもって、フォーム上の集団と対峙した。その対峙は、代々木公園の集会が終る時刻に合せてかれらが引きあげるまで、およそ三時間に及ぶ。千葉がフォームを移動した後に、おくれて到着した仲間がいる。その20人余りは、フォームのベンチにおしつけられて、三時間のあいだ、殴る蹴るの暴行をまじえた脅迫に、じっと耐えなければならなかった。
 のちにわかったことだが、この集団暴行に先立って、幹部がAとIという二人の弁護士をともなって錦糸町駅長を訪れ、「電車が停ることがあっても、動労本部が責任をもつから…」と申入れたという。千葉にたいする暴力に、当局は、公安官や警察をよぶような、介入をしないで見逃してくれということだろう。また、当日の動労青年部のただならぬ動きに合せて駅前には機動隊が出動していたが、駅フォームの暴力にまったく干渉せず、かえって退避する千葉の集団に威嚇姿勢を示している。
 400人の集団には、あきらかに動労組合員以外の者、学生と覚しい者が加わっていた。暴力の先頭に立ったのは、本部青年部書記長、関東青年部長らに指図されたそれらのグループであり、動員された青年部の労働者は、3時間にも及ぶ20数名の千葉の青年たちにたいする暴行・脅迫には、大半が当惑して眼をそむけていたという。そうでなければ、180人が400人の囲みをぬけ出すときに、当然大乱闘になり、双方が少なからぬ重傷者を出すばかりか、180人がまとまってぬけ出すこともできなかっただろう。つまり、この人びとにやる気がまったくない、ということである。ひとは、名分を欠いた行動に情熱をもやすことはできない。

4・12成田、館山、勝浦支部への襲撃

 あくる4月12日、千葉の全組合員が怒りを煮えたぎらせているそのなかへ、本部は、中執も加えた青年部幹部を指揮者に、総勢540余りの大量動員で、千葉の三つの支部へ人数をさしむけてきた。成田へ200余、館山へ170、勝浦に170。3月19、20日以来の大量攻勢である。だが、三月の時点と異なるのは、この集団には、バール、金ノコを携帯する者があり、あきらかにはじめから破壊を意図してさしむけられているということである。昨日の待ち伏せ暴力襲撃で、千葉がふるえ上っていると錯覚したのか、それにトドメを刺すつもりででもあったのか。しかしそれはまったくの誤算であった。千葉の全支部、全組合員は、錦糸町駅事件にたいして、火の玉のように怒りにもえ上っている。さらに、昨日の事件をききつけた支援共闘会議の労働者が数百人、津田沼を拠点に早朝から陸続とつめかけている。
 成田へは、10時半すぎに、本部青年部長の指揮で220人ほどがおしかけた。支部長がともかく応待しょうと庁舎玄関口へ出たところを拉致されようとしたが、青年行動隊がとびかかってうばいかえし、そのまま二階乗務員室にこもって防戦。上と下で二時間余りの対峙になる。百人余りが、二階へ上ろうとするのを、上から放水で撃退。そのうちに、津田沼に集結した支援共闘のうち150人が成田へ向つたという報が伝わると、あわてて集団をまとめ、フォームに入ってきた特急電車にとびのって、一気に東京へ逃げ帰る。
 館山へは11時半ごろ、本部青年部副部長がひきいた170人。支部役員が運転区庁舎玄関へ出て、三里塚、貨物合理化、大会暴力行為等の問題の論戦になる。本部に動員された青年部の労働者たちは、そういう論戦をはじめてきく人びとが大半であったのにちがいない。かれらのなかにははじめて聞く真実に眼を開かれる者もすくなくはなかっただろう。やがて津田沼から支援共闘の100人が向つたという報が入ると、この集団もそそくさと、2時の急行で退散。ここではあわてふためいて、2人がとりのこされている。ところで皮肉なことに、この上り急行が安房勝山駅で、支援共闘の100人が乗った下り列車とすれちがい停車になり、支援集団の方も、『館山へおしかけた集団が退散したという報に接して帰路につくため上り急行に乗り移ったところで、この集団に車内で遭遇した。支援の労働者たちは、千葉駅までの一時間、シートにうずくまって新聞紙で顔をかくす連中を、走る車内で、徹底的に糺弾。かれらの多くは、何もわからないで千葉へ動員させられたという。
 勝浦に来たのは、中執と特別執行委員、それに本部青年部の書記長、関東青年部の副部長、それが170人を引きつれて、正午に到着。引率者の陣立ても念入りだが、おどろいたことに、この中央執行委員が引き連れた集団は、到着するなりはじめから木造二階建の庁舎を囲んで、玄関ガラスを割り、バールでサッシの窓枠をはずしてガラスをメチャメチャにし、その上で庁舎にこもる組合員に話し合いに応じろと要求する。本部執行委員の「指導」の下で、こんな乱暴狼籍がいきなり始まるのだから、事は重大である。しかしそれが、現在の動労指導部の体質なのだろう。
 勝浦支部では、さきに家庭「オルグ」に潜入した、地本役員をふくむ6人を詰問して自己批判書を書かせている。かれらが勝浦へ来たのは、その報復の意図をもつものらしい。そのことは、指揮の幹部がいろいろ言う中に、「自己批判書を返せ」と再三くりかえしていることでも想像される。


支援共闘100人は、勝浦支部組合員の歓呼に迎えられた

 支部組合員は、立てこもった室内から外へ、「命がほしくない奴は入って来い!」と威勢よくどなる。だれも入っていこうという者がない。そんな膠着状態が2時間半もつづいて、彼らははじめの乱暴はどこへやら、だんだんげんなりしてくる。やがて、支援共闘が接近しているという知らせで、あわてて2時半すぎの急行に乗り、退散。ここでも、外廻りの家庭「オルグ」をやらされていた2人が置き去りにされている。「自己批判書」を取り戻しに来たはずなのに、さらに2人分の「自己批判書」をふやしたわけである。支援共闘100人の集団は、彼らが逃げ去ったほんの数分後に到着。支部組合員の歓呼に迎えられ、ガラスのくだけ散った庁舎前で総括集会を開く。
 この日の「オルグ」は、そんな風に、一部にまったく意味をなさない破壊の跡を残しただけで、ことごとく敗退した。しかも、かれらの無意味な乱暴は、それだけで終ったのではない。成田から13時18分の特急で遁走した220人の集団は、帰途2時16分錦糸町駅でのりかえて新小岩機関区におしかけ、庁舎のガラス扉をサッシごと外してガラスをめちゃめちゃに砕き、ただその行為だけで引きあげたのである。無意味といえば、これほど無意味な破壊はない。腹いせなのか、あい手に恐怖感を与えようという脅しの示威のつもりなのか。おそらくその双方だろう。恐怖感を与えて支配しようとする―それが現在の動労指導部のやり方であること、それは端的に表現する。
 3日おいて、4月15日、かれらは私服姿200人でふたたび勝浦にあらわれる。日曜日の午後のだれもいない運転区庁舎に入いりこんで、組合ビラを剥し、壁や窓にマジックで「中野一派追放」などと稚拙な落書きを書きちらし、2時間もうろついたあげく、外房線で帰りがけたが、支援共闘労働者が出動して帰京の退路を断つという報に接して、あわてて大原駅に途中下車。線路の砕石をビニー袋に集めたり、一部は駅前商店をかけまわってジュース、コーラを買いこんだり、その上で乗りこんだ急行最後尾の二車輌の乗客を前部車輌に移動させ、座席を外して窓に立てかけてバリケードを作り、ブラインドをおろしたまま、息をこらして東京まで帰った。恐怖によって人を支配する者は、必要以上にあい手の影に脅え、恐怖する。
 200人もひとかたまりになって、この恐れようはあまりに異常である。しかもかれらは、国鉄の大切な顧客である乗客を、かれらの手前勝手な恐怖から座席を立たせるという、許し難い無礼なふるまいを平気でやってのけている。かれらの民衆にたいする心情がどういうものであるかが、この一事だけでも明瞭である。これは、動労という大衆組織をセクトの私物化してはばからないやり方に、そのまま通ずるものである。
 それにしても、砕石を集め、ジュ.ース・コーラびんを集め、車輌の窓に座席でバリケードを作るというやり方は、いまのふつうの労働者には、とっさになかなかやれないやり口である。この日の集団が全員私服であったということとも考えあわせると、これは動員された動労組合員というものではない、 外部の職業的なテロ集団だったのではないかと疑いを禁じ得ない。
 外からの集団が、動労組合員のなかに入りこんで動いているという想像は、その2日後に起った津田沼の事件ではっきりと事実として示される。

4・17津田沼電車区襲撃事件

 4月17日、津田沼電車区では、朝から支部長以下役員8人が庁舎内で労働安全衛生委員会を開いていた。そこへ津田沼駅から、組合員の電話で、150ほどが固まって駅へおりたという急報があり、役員は会議を中止して、庁舎内に居合わせた組合員数人と合わせて10数人、大急ぎで二階へ通ずる階段をロッカーでふさぐなど、防御の態勢をつくった。
 駅をおりた150人は全員私服、構内の庁舎まで数百メートルの距離を全力疾走で駆けぬけ、庁舎前広場で別働隊が運転してきた運搬車にドッキング。そこで、動労のナッパ服に着がえ、ヘルメットをかぶり、車に積んだ青竹の束、袋につめた石、バール、ヘンチなどを分配して、青竹をかまえた50人を先頭に、投石しながら、正面玄関口から突入してきた。建物のなかの十数人の組合員は、それぞれ部署を定めて防衛したが、ドア、窓ガラスを青竹で突き破られ、次々追い上げられて三階に退避、講習室というやや広い部屋にこもってバリケードを立てて抵抗した末、そこも破られて数十人がどっとおし入り、その場で、青竹で突かれ、靴で蹴上げられるという暴行を受けた。かれらはさらに、組合員たちを二階乗務員詰所に引き立て、そこであらためてあい手が支部役員か一般組合員かを選別して、支部長以下の役員に集中的リンチを加えた。
 その経過で、まことに奇妙なことがある。青竹をかまえて突入し、突いたり蹴ったりの暴行をもっぱらとした数十人の集団は、支部長や副支部長、青年部長など、すくなくとも、動労内部の活動家ならしばしば顔をつき合せて知っているはずの、役員たちの顔も名前も知らない。津田沼の活動家たちも、かれらのなかに見知った顔がただの一人もいない。そしてかれらは動労の組合員はもとより、びっくりして傍観していた庁舎内の国労の組合員とも、絶対に口をきこうとしない。乗務員詰所に監禁した組合員のなかから、支部長以下の役員を指名して引き出したのは、かれらに随伴した元関東青年部長と、前本部青年部長の二人である。建物に突入したのは、かれら青竹部隊の数十人であった。100人余りの集団は建物の外に群れている。おそらく、突入した数十人は、動労の労働者ではないのではないのか。動労の組合員の部隊は外において、外人部隊の殺し屋を突っ込ませたということなのではないのか。
 この殺し屋集団は、役員たちにリンチを加えたあと、支部長以下を庁舎前に引きずりおろす。そのさい、グループの指揮をとっていた男が、「ちょっと、待て…」とおさえ、リンチのあとを消すように、顔の血をふきとらせる。これも手なれたやり口である。引き出された8人は、支部長をのぞいて7人が、庁舎前にたむろした集団を前に、千葉攻撃のおきまりの汚ない文句を次々とあびせられる。つるし上げ、ということである。支部長だけは、ここでもあらためてリンチをうける。髪をつかんで構内に引き込みの線路に頭を、何度も何度もぶっつける。パンテージを手にまいて殴りつける。言語に絶する暴虐が、衆人の見る前でつづけられる。
 津田沼の支部長がこれほどまでに徹底して対象とされたのは、青年部の役員として活動していた数年前から、動労の内部では反対側にもよく知られた活動家だからである。こんどの千葉地本役員にたいする処分でも、委員長、書記長とともに除名処分の四人のなかに加えられている。憎しみを集中された一人ということであろう。それであればなおのこと、襲撃に向かった集団が、誰もその支部長を知るものが無かったということが不思議である。
 やがて、突入した時点から2時間。集団は、青竹をかついだ連中を先頭に駅へ引きあげる。電車区入口には、機動隊が出動していた。機動隊は庁舎内の暴行はともかく、庁舎前でリンチされる支部長の血だらけの姿を、遠眼ではあれ現認している。しかし、介入しようとしない。傍観するだけである。さらに集団の引上げには、機動隊が先導している。いかにも、警察に護衛された殺し屋といった光景である。
 また国鉄当局も、庁舎建物のガラスがくだかれ、ベニヤのドアが突かれて穴だらけになり、器物がめちゃめちゃに破壊されるという損害を受けているにもかかわらず、それを取り上げて動労本部へ抗議しようという気配はない。これは、他の支部の場合についてもおなじである。この日、乗務員の出発点呼がしばらく不可能になり、ラッシュから夜間までの電車が大量に運休して、ダイヤが大幅に乱れた。その責任についても、当局はあえて問おうとしない。一番ひどいリンチを長時間にわたってくりかえしうけた支部長は、頭蓋骨折の重傷でただちに病院に運ばれ、副支部長以下の七人の役員も、それぞれ重軽傷。しかしみんな、いまは元気に恢復した。 なお、襲撃者は、庁舎わきのプレハブの組合事務所を破壊し、組合関係の書類を大量に持ち去っている。

4・21新小岩支部大会への襲撃

 津田沼襲撃は、錦糸町駅事件にもまして、千葉地本の労働者たちを噴怒のるつぼにたたきこんだ。労働者は連帯意識が強い。ことに現場で仕事をする動力車の労働者は、さらにその意識が強い。津田沼支部長の重傷を、千葉の労働者たちは、わが身のことと受けとめた。襲撃は、千葉の労働者に恐怖をひろげるのではなく、襲撃者への怒りにもえた団結の強化へ作用した。
 事件のあったあくる日の4月18日、動労千葉の新組合発足にともなう津田沼支部結成大会がひらかれた。入院した支部長に代って、頭を繃帯でぐるぐる巻きにした副支部長が経過報告に立った。新組合加入の団結署名100パーセント。19日から12日まで3日間、連日500人から700人の「オルグ」攻撃があい次いだが、そのあいだにも館山、新小岩と、支部結成がつづけられた。21日の新小岩結成大会は、破壊「オルグ」650人の来襲のなかで進められた。会場は、庁舎二階。乱入しようとするのを、一階で応援の千葉各支部組合員が扉を押えて防衛する。一階の窓ガラスを割るが、なかへ入れない。業をにやして、用水桶の腐った水をぶちまけたりする。650人もおしかけて、かれらのお得意の暴力でなだれこむのはたやすかろうと思うのだが、この650はすべてが、かれらのテロに100パーセント同調する人たちではない。いやいや動員された者が大半である。それに、かれらは津田沼の場合のようにあい手が少数と見きわめがっかなければ、直接に手を出してぶつかることをしない。そのことは、さきに成田、館山、勝浦で、支援共闘の出動におびえて逃げ去ったいきさつでもよくわかる。卑劣なのである。新小岩には、今日は支部員が150人、応援の各支部組合員が100人詰めている。やがてかれらは、庁舎前にとめた動労本部の宣伝力ーのヴォリュームをいっぱいにあげて、「総括」と称して演説を始める。宣伝力ーの上に、動労内の本部反対派(労運研)と目される役員をわざわざ引張り上げて、「決意表明」をさせる。一「動労の正常化のために努力します」などと、どっちにもとれるようなことをいう。二階の会場につめた支部労働者から、「よ一し!」と声がかかる。
 かれらはここでも、別棟の組合事務所の扉の鍵を金ノコで引き切り、なかにあった書類、組合旗、かけ時計、さらに組合書記の女性の持ち物をさらっていった。
 さらに24日から5月2日まで、毎日支部結成がつづき、ほとんどの支部が新支部結成手続を完了する。

4・28〜5・1敗退した四日間「オルグ」

 本部は、この千葉の情勢に焦立ったのか、4月28日から5月1日の4日間、全国動員で連日1000名ら1500名の組合員を千葉にさしむけるオルグ計画の実施を発表する。5月の半ばには、104回臨時中央委員会が予定されている。それに向けて、何とか千葉問題の切りくずしの糸口でも報告できるようにしなければ、執行部が大上段にふり上げた刀のやり場がない、ということなのだろう。本部の青木書記長は、このオルグ計画実施にさいし、記者改憲で、千葉地本のオルグによって再建準備会を結成すると宣言した。だが、4日間の成果はどうだったのか。
 本部は、林委員長、青木書記長以下の中執、全国地本の委員長を千葉に送り出し、連日大量の動員で、各支部にたいする宣伝攻勢にまわったが、どの支部でも拒否されるか、論戦してやりこめられるかに終る。動員された全国各地本の組合員たちは、支部の掲示板の「団結署名100パーセント、支部結成大会圧倒的勝利」というビ


4月20日 千葉転 庁舎の廊下で対峙


ガッツ!革マルを撃退したぞ!


動労本部の林委員長を激しく追求する千葉転支部組合員 5月1日

ラを大ぜい取りかこんでのぞきこんだり、千葉組合員に逆に「オルグ」されたり。
 林委員長はいくつかの支部をまわったが、どこでもあい手にされず、たとえば千葉運転区では、支部組合員に、「みんな動労の組合員だ、だからオルグを受け入れてくれ」となかへ入ろうとして、組合員につるしあげられ「おれたちの委員長は、関川委員長しかいない。林委員長なんていう人は知らない。帰れ!」と一喝されて引き下るという工合である。おそらく、かれはこんな屈辱をいままでに味わったことはないだろう。千葉の労働者は、津田沼襲撃を胸にきざみこんでいる。あれは、中央執行委員長としての林大鳳の責任ではないのか、といいたいのである。
 4日間の動員数、延べ13、OOO人(本部発表では、18、000人)、濫費された本部支出の動員費は、1億2、3千万円にものぼるだろう。これは春闘のさなかである。動労は、3月から5月という春闘のもっとも重大な時期に、厖大な費用と人員をつぎこんで、徒労な千葉攻撃に終始した。ただひとえに、一セクト(革マル)の動労支配の座をまもる目的だけのために―。悲しい組織である。
 最終日の5月1日、千葉運転区庁舎前で、「オルグ団総括集会」なるものが、宣伝力ーのスピーカーを使って開かれた。そのなかで、門司地本副委員長から「4日間のオルグは何の成果も上げられなかった」という発言が、千葉の組合員にも声がとどくように意図されたはずのこの最終宣伝でとび出している。
 青木書記長が、「千葉に再建準備会を組織する」と宣言して開始された4日間の「オルグ」は、こうして終った。動員された多くの全国地本組合員が、千葉に入り、千葉の組合の気魂にみちた団結の固さにじかに接して帰っている。何よりも人びとは、動労千葉の一本シンの通った正義感に打たれることがあったにちがいない。その人びとの千葉を見る眼は、すくなくともそれまでとはちがつたものになるのではないか。そういうことからいって、この大げさな「オルグ」動員は、動労現体制にとって、一種の自壊促進行為ではなかったのか。

おわりに

 この「オルグ」キャンペーンが終ったあとも、千葉へはたえず「オルグ」と称する人数が入りこんでいる。しかしそれも、日を経るにつれて、次第に間遠になってきた。千葉は、交渉権を確保するために、新組合の形をつくり、六月半ばに公労委の承認をとった。しかしいうまでもなく、千葉の目的とするところは、動労の再生である。動労を、徒党(革マル)の私物化、恐怖支配から解放し、労働運動としての本来の姿に立ち返ることである。
 私は、この動労千葉の立場に共感する一文を、もっぱら事実の経過に絞って書きつづった。私自身の事実についての感想も加えてはあるが、事柄自体はすべて事実そのものである。まとめる上の材料は、『日刊動労千葉』と、千葉組合員からの聴き書き、それに私自身の見聞である。事実が、一切を、もっとも雄弁に語る。そんな風に読んでいただきたいと思う。

(あさだ・みってる動労ジェット闘争支援共闘会議世話人)

動労本部中央役員15名が抗議して辞任