90年3月84時間スト  
90年3月を前に、国鉄闘争は大きな岐路にたっていた。JR発足後も三年間、解雇撤回−JR採用を求めてたたかいぬいてきた仲間たちが、清算事業団からも解雇されるという状況に直面して、さらにたたかいを継続することができるのか否か、もしここで挫けてしまえば、それまでの苦闘は全て水泡に帰すことになる、そういう岐路であった。求められていたのはJR本体からの断固としたたたかいへの決起だった。それこそが、人生をかけた決断を迫られていた清算事業団の仲間たちに勇気を与え、心をひとつにする唯一の選択肢だった。

JR体制で初めて電車を止める!

 動労千葉は、89年12月5日、あJR発足後はじめての運転士を対象とした24時間ストに起ちあがり、90年3月18日には、JR当局のスト圧殺攻撃、JR総連のスト破りに抗し、当初予定していたストライキを半日繰り上げて、正午からの84時間ストに決起した。
 しかし、前述のように国労本部は大きく揺れ、いかに政府と話をつけるのかに腐心し、3月19日から設定されていたストも、日がたつごとに、中止の方向に傾いているとの情報が職場にも伝わってくる状況だった。



フェンスで囲まれる津田沼支部組合事務所

スト妨害するな(90年3/19津田沼)

津田沼支部

館山支部  スト総決起集会

●職場のロックアウト
 だが、たたかいのきっかけはむしろ当局の側から与えられた。千葉支社当局は、ストライキを圧殺するために、スト前日の朝から職場をロックアウトし、勤務者以外は庁舎どころか、組合事務所にすら通行させない体制をとったのだ。津田沼支部の組合事務所の前には壁を設置する工事まで開始された。動労千葉は当局に厳重に抗議し、もしこの状況が解除されなければ、本日正午を圓してストに突人することを通告した。三月一八目からの入国時間ストはこうして戦端をきったのである。このたたかいは、国労本部の深刻な動揺にもくさびを打つことになり、1047名があくまでも解雇撤回を求め、胸を張って四月一目をこえた。それは「最後的敗北」などでは断じてなく、清算事業団闘争の歴史的な勝利に向けた新たな出発点であり、一切の反動勢力を震撼させる大きな地平であった。
 その狙いが全く逆効果となったことに動転した当局は、直ちに「前倒しは違法ストだ」「かかる反社会的行為に対しては巌正に対処する」という社長談話を発表し、その後7月17日に出勤停止3名をはじめ141名に不当処分を通告、9月11日には2100万円あまりの損害賠償請求訴訟を起こした。さらには、JR総連の要求に応じて、この闘争以降スト破りへの褒賞金の支払いまでするにいたる。だが、このたたかいによって打ち砕かれた思惑は、どのような弾圧をもってしてもとり返せるものではなかった。