第五章 嵐のような攻撃ー
86年の攻防
 八六年に入ると、国鉄労働運動への解体攻撃はさらに激烈なものとなった。3月には、第一次広域異動が提案された。ローカル線廃止で「過員」の多く出た北海道、九州から、本州への広域異動を募集するというものだ。当時、「血の入れ換え」と称されたように、本州で国労組合員を職場から追い出すための差し換え要員として、動労カクマルは積極的に応じ、自らの組合員を半ば強制的に広域異動にかりたてた。
 さらに、当局は全職員を対象とした職員管理調書の作成を指示する。それは、職員を最上、上、普通、下、最下のランクに振り分けるものである。さらに「企業人教育」という「意識改造」計画が始まった。そして、国労東京地本上野支部を中心とする革マル分子が国労を脱退、四月一三日に「真国労」を旗揚げした。
 この集中攻撃のなかで、国労は進むことも退くこともできない巨艦のように立ちつくした。
 攻撃のピークは7月だった。全国1000カ所余に悪名高い「人材活用センター」が設置された。「ここに入れられたら新会社には行けない」という現代の強制収容所に、翌年三月までの間に二万一千名の労働者が隔離・収容された。大半か国労組合員であった。そして動労はついに総評からの脱退を決定する。
★骨が折れた国労本部
 この過程で国鉄闘争に非常に大きな影響を与えたのは、7月6日の衆参ダブル選挙だった。この選挙に国労本部は最後の望み託していた。五千万署名もそのためにあった(実際それは三千五百万という驚くべき数に達していた)。しかし結果は、自民党圧勝(304議席)だ。
 この選挙の大敗で国労本部は、ほとんど骨が折れてしまった。七月二二日から千葉で開かれた国労全国大会では「大胆な妥協」方針が打ちだされ、「必要な合理化は積極的に推進する」「争議権の行使を自粛」を資本に誓約するという「労使共同宣言」の締結については「中央闘争委員会に一任する」との方針が協会派や共産党・革同も支持する中で決定されたのである。
 この千葉大会以降、国労からの脱退者が毎月一〜二万人と急激に増加した。追い討ちをかけるように、当局は8月末に動労や鉄労などの改革労協との間に第2次労使共同宣言を結び、9月冒頭には、75年のスト権ストに対する202億円損賠訴訟を動労に対してのみ取り下げるという露骨な国労切り崩し政策を打ちだした。
★国労修善寺大会

 この時、権力、当局、そして動労革マルは、国労の解体・消滅は時間の問題であり、間違いなく八七年四月までには消えてなくなると思っていたに違いない。
 だがこの洪水のような逆流に抗して、国労の組合員は本部の総屈服方針を断固拒否して起ちあがった。10月国労修善寺臨時大会がそれである。そもそもこの修善寺大会は、千葉大会で中央闘争委員会に一任された労使共同宣言の締結を、機関として確認するために召集された大会であった。しかし、全国から結集した組合員の抑えがたい怒りがここで一挙に爆発し、中闘提案である「大胆な妥協」方針=労使共同宣言の締結は否決され、執行部は総辞職した。
 2波のストにかけた動労千葉の思いは、修善寺における国労組合員の決起というかたちで実現された。そして国労は最後の一線を踏みとどまり生き残った。
 しかし修善寺臨大には限界もあった。ここで選出された新執行部は、スト破りを行い「大胆な妥協」方針を支持した協会派と共産党・革同の連合であり、当然にも闘う路線を確立でなかったのだ。そしてそれは「四党合意」にまで行き着いたのだ。
 いま、国労組合員に求められているのは、「修善寺大会」を「自らの原点」と確認することではない。国鉄分割・民営化反対闘争の総括だ。それなしに、闘う路線も、闘う指導部も確立できないのではないだろうか。もっとハッキリ言うと、「動労千葉の闘いと路線を学び我がものとする」ことができるのかどうかが問われているのだ。
★ 12名JR不採用
   =清算事業団送り

  修善寺大会を契機として国労から旧主流派が鉄産労として大量脱落した。だが結局4万の組合員(87年4月現在)が残った。
 もうひとつ国鉄当局の大きな誤算があった。全職員を対象に、7分割される新会社のどこに行きたいかの意思確認を行ったが、本州三社については「定員割れ」が生じたのである。あまりにも激しい攻撃のなかで、当局の予想をこえる数の労働者が国鉄を去っていったためである。「これでは動労千葉や国労組合員が全て本州のJRに採用されてしまう」と動転した動労カクマルは、「採用枠を削ってでも国労や 動労千葉の首を切れ」と当局に哀願した。
 87年2月16日の採用通知においては、北海道で4700名、九州で2400名、定員割れの本州・四国でも約80名が不採用となり、全国で131ヵ所に設置された国鉄清算事業団雇用対策支所に送られることになった。大半は国労組合員だったが、動労千葉も12名が清算事業団に送り込まれた。「過去三年間に、停職6ヵ月または2回以上の処分を受けた者」はJR不採用という新たな基準が急きょ加えられたからである。「過去三年前」というのは、要するに動労本部が一切のたたかいを中止したときということだ。これによって動労千葉の解雇者は、分割・民営化攻撃とのたたかいだけで40名となった。

★団結を守りぬき、
そして全国へ
 八六年を頂点とした攻撃は、動労千葉に対しても激しく吹き荒れた。しかし国労と事態が全く違ったのは、二波のストライキをはじめ連日の激しいたたかいを貫徹した千葉の各運転職場では、職場の力関係は動労千葉各支部が圧倒していたことだ。それ故に千葉の運転職場には一人も広域異動を入れることができなかった。
 さらに動労千葉は、職場から全国に打ってでた。動労千葉の闘いは、全国に大きな共感と感動を作り出していた。 映画『俺たちは鉄路に生きる』(宮島義勇監督)の全国各地での上映会運動には1万3,000人が参加した。さらには、物資販売運動を全国的規模で開始し、大量の解雇者を抱えた動労千葉は、全国の労働者の支援で支えら、今に至っているのである。
当時、動労千葉は、たしかに満身創痍であった。しかし、どんなに困難ななかでも、たたかって団結を守りぬき、JR体制にのり込んだ。この分割民営化の過程で動労千葉は、一人の脱退者も、そして自殺者も出さなかった。
    



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強制配転

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