第3章第一波ストライキ突入  

★火ぶたは切って落とされた
このスト破壊策動に対して、動労千葉は、直ちにスト突入を二八日正午からに繰り上げることを決定した。国鉄当局は、不意を打たれ、二九日の「スト破りダイヤ」はふっとびパニック状態になった。
 「正午スト突入」という戦術は、ダイヤの混乱という点では、午前0時からストに突入する場合に比べはるかに効果の大きい戦術だ。12時正午以降の交番の電車に乗務しない、12時以前から乗務している組合員は途中で電車を降りてしまう。たとえばの総武線快速を運転する組合員は、正午に錦糸町駅でスト突入となり、その電車はそこで立往生することになるのだ。
 こうして動労千葉の二四時間ストは敵権力・当局の重包囲の中でスタートを切った。それと同時に、国労、動労組合員を動員した国鉄当局のスト破り策動もまた全力で開始された。ぎりぎりの息づまる攻防の中で時間が過ぎていった。総武線にどれだけの影響が出るかは国労の動きにかかっていた。もし国労が当局の指示に従って全面的なスト破りに走るなら、総武線はほとんど影響を受けない。そうなれば動労千葉のストライキは、ただ組合員に無力感と絶望感だけを残すことになるだろう。正午のスト突入以降、動労千葉組合員の誰もがかたずをのんで国労の動きを注視していた。

★スト破りを組織した協会派と共産党

 

その中で、一人、また一人と当局の圧力に屈して国労組合員がスト破りを行っているという報せが入ってきた。動労千葉組合員の中に、いらだちが広がっていった。ある国労組合員は、スト破り乗務を拒否しようとしたが、協会派役員に恫喝され泣く泣く乗ってしまった。
 また、千葉運転区では、5名の分会役員が、「国労方針では責任を持てない」として辞任した。分会執行部が崩壊したことを良いことに協会派や共産党・革同の活動家が公然とスト破りを組織し、自らも率先してスト破りをおこなった。

 
★ついに国労組合員の
     決起がはじまった 
一方では、必死で奮闘する国労現場組合員もいて、運休はどんどん増えていった。 こうして、動労千葉のストライキが、国労をもまき込みながら白熱した攻防をくりひろげている最中、画期的な事態が発生した。この日午後の乗務を予定していた国労津田沼分会の二名の組合員が「スト破りは絶対いやだ」と言って国労を脱退、動労千葉への加盟を申し込んできたのだ。動労千葉は、国労の個々の労働者を個別的にひきぬいて獲得しようなどという組織方針はとっていなかった。むしろ国労組合員が、国労のなかで起ちあがることを望んでいた。だがこの場合はそうもいっていられなかった。国労の方針に反して国労組合員がストに入れば、自動的に本人が解雇になる。動労千葉は二人の加盟を認めた。二人はただちに乗務を拒否してストライキに入った。
 この二人の決起は、決して国労の中の一握りの例外的の決起ではなかった。
こうしてスト第一日目ストは、空前の弾圧体制を打ち破って貫徹され、次のような影響をもたらした。運休153本、列車遅れ1290分

★スト破り方針を転換させる
 国労津田沼分会の組合事務所では、28日から29日未明まで、「俺たちにスト破りをやれというのか!」と、国労本部の指導をめぐって怒鳴り合いの激論を交わす状況がつづいた。国労本部中執の説得は、怒りの声に包まれかき消された。
 そして深夜、国労津田沼分会の執行委員会が開催され、「毎日顔をつき合わせている仲間を裏切ることはできない」「国労の誇りにかけても今日のようなことは繰り返すべきでない」「オレは処分されても業務命令を拒否する」という意見が続出し、ついに国労本部をつき動かし、「業務命令には従わない」という方針転換を確約させたのである。
 たった一つの分会のたたかいが国労の方針を変更させた。『業務命令拒否』とは、国労自身が当局とたたかうということであり、事実上国労そのもののストに等しい。 当局は、予想もしなかった事態に顔面蒼白となった。ストライキ第二日目、29日の総武線の朝のラッシュが大混乱に陥いることは不可避だった。

★浅草橋戦闘と国電ゲリラ
 29日深夜、革命軍による首都圏、関西をはじめ全国で国鉄ゲリラ戦が炸裂し、また早朝には、全学連を先頭にした部隊によ浅草橋駅を破壊・炎上させたを大戦闘がおこなわれた。 
 ゲリラ事件としては空前の規模だ。それは、中曽根内閣の国鉄分割・民営化の強行に対する、そしてスト破壊に手段をえらばぬ国家権力に対する怒りの鉄槌として実行されたのである。
 午前11時50分、動労千葉はスト集結指令を出した。二日間にわたった二四時間ストライキはこうして、さまざまなドラマを生みながらひとまず終了した。

★第一波ストの衝撃
 第一波ストの衝撃はすさまじかった。ストライキの獲得目標である《国鉄分割民営化の恐るべき陰謀を赤裸々に暴き、社会問題化にする》ことが達成された。
 既成事実化していた国鉄分割民営化について、ついに国論を二分する論議が始まったのだ。その最大の焦点になったのは「10万人首切り」だ。けたたましくストライキを非難していたマスコミの論調も日がたつごとに変わり、「なぜストライキが起きたのか」「分割民営化はどこに問題があるのか」「本当にこのまま大量の首を切るのか」「土地売却問題はどうなるのか」等々の記事が一斉に報道された。なかには「労働組合ともっと話すべきだ」「余剰人員などと呼ぶこと自体が問題」というストを擁護する主張まであらわれはじめた。
中曽根政権は大あわてで対応しはじめた。12月、政府は「余剰人員対策」を閣議決定。 マスコミは連日、「東京都が何千人、名鉄が何百人引き受け」と報道した。政府、国鉄当局は、この問題を解決しない限り国鉄労働者が闘いに起ち上がってしまうと恐れたのだ。
 死中に活を求める―労働者がクビをかけてストライキに決起することの政治的威力は絶大であったのである。
★動労千葉の本気さに
        敵は狼狽
 スト直後、国鉄当局は「ゲリラを惹起せしめたのは動労千葉スト」「直ちに厳正な処分を下す」と発表し、さらに毎日新聞は、「ストライキ参加者100人全員解雇」と報じた。これに対して、動労千葉は、「敵が第一線を越えた大量処分の対しては、動労千葉も一線を画した大反撃に打って出ると表明した。
 これに敵は狼狽した。年末返上、元旦、1月の成田山初詣臨時列車のストを恐れたのである。 動労千葉の本気に、「年内処分」は粉砕され、処分が出されたのは2ヶ月後、の1月28日だった。
 第一波ストで、それまでは一方的な攻撃にさらされながら歯を食いしばって耐えつづけるだけだった国鉄労働者と敵との関係に劇的な変化をもたらした。
 もちろん動労千葉は、一波のストぐらいで分割・民営化攻撃をつき崩せるなどとは考えていなかった。総体の力関係を変えていく以外に勝負はつかない。しかし国家権力をして「動労千葉をナメてかかったら大変なことになる」ということを認知させたのである。そして労働者が団結さえしていれば、たとえ国家をあげた攻撃に対しても、真正面から挑み互角の勝負ができることを示したのだ。